はないろ





 小さな花が咲き乱れても、海面はまだひんやりしていた。
 見渡す限りの草原はある一辺でごく水平な断絶を迎え、数メートルの不恰好にひしゃげた崖を経由して、砕ける波濤の白く泡立つ海の中へと落ち込んでいる。懸崖の岩石は奇形ばかりで、キキョウが下へ伝い降りるに充分な出っ張りと窪みのいくつかを具えていた。
 海面ひたひたの無骨な岩へキキョウは身軽に腰を落ち着ける。靴を脱ぎ、靴下を丸めて靴へ詰めると、半ズボンの裾を捲るのも乱雑に、待ち焦がれていた両の素足をさっそく海へくぐらせる。
 透き抜けるような涼が満ちた。
 キキョウにとって、もはや癖のような慣習である。海があれば皮膚を触れさせずにいられない。海はキキョウのいつか帰るふるさとであり、宿星を集わせた懐かしい思い出のよすがでもある。だから触れざるを得ないのだろうが、キキョウ自身にその認識は一切なかった。触れたいから触れる、それも毎回、それだけだ。単なる慣習のうちのひとつ。
 ざぶんと波がキキョウの太股までを派手に濡らす。衣服の裾へ飛沫が飛び散る。なのに瞬きひとつも頓着せぬままキキョウは周囲を仰ぎ見た。
 崖の上に咲いていた花々は色も形もとりどりで、だがほとんどの花がキキョウの小指くらいしかなかった。景色はまるで湿った萌黄の絨毯へ金平糖を撒いたよう。磯の匂いが漂わずんば、草原の先に岨があり海があるとはにわかに信じがたかったろう。そんな風に、草原ではあんなに視野を支配していた強靭な小さき花たちさえも、水煙の立つこの断崖へは侵入を果たせなかったと見える。崖は砥粉色の岩肌を粗放に露出させており日光を受けて乱反射する。無機質だ。
 ふ、と花色が目を横切った。
 とりわけ群を成して草原に咲き乱れていた淡い紫色の花、一輪。キキョウの右手、崖の中ほどで岩の隙間から小さな顔を覗かせている。
「…あのこ」
 けなげ、と言いかけて、キキョウはこくりと飲み込んだ。健気はふさわしくない気がしたのだ。もっと別の感想がある。けれど、該当する言葉がとっさに出てこない。
 キキョウは紫色が好きだ。桔梗の花弁が紫だから。ほかに自分と呼べる関わりをキキョウはずっと知らないでいる。友も仲間も自分自身の一部ではなく、左手に禍々しく宿り続ける紋章、キキョウが立つこの土地、歩く道、すべてが決して自分ではない。いくら密接に繋がろうと、それは自と他との境界を確認する作業であって、つまり、自分ではないことを確認させられるのみなのだ。誰か他者につけられたキキョウというこの名前を除いて。
 悲しいことではない。悪いことでもない。キキョウは、今のこの瞬間にキキョウが生きているという事実以外の何物をも所有していない、とわきまえているだけである。
「…でも紫はすき」
 でも、と呟いたキキョウは完全に無意識だった。キキョウの思考に己が存在への問いかけや自他の弁別といった概念は育たないからだ。健気、と言いかけたのを訂正することができないまま、漫然と四方を見渡した後、なぜか逆接の接続詞がまず口をついて出てきたのである。本人に理由は見出せない。
 太陽が正面から右へとゆるやかな弧を描くのに併せ、海は干潮へじりじりと近づいているようだった。キキョウの腹まで幾度も届いたしょっぱい海水の飛沫が今は時折膝を濡らす程度で名残惜しげに引いてゆく。さっきまでの微風も凪いで、青い空は白っぽい黄を徐々に加算し始めていた。
「…西へいこう」
 朝食に紅茶あるいはコーヒーのどちらを選ぶか、といった気安い声を、硬い岩壁へ響かせる。そうやってキキョウは今日これからの旅先をごく唐突に曖昧に定めた。南へ切り立った崖に座って、崖の中腹に生えた一輪がキキョウの右側へあるからだ。紫が好きだから。あるいは、花が孤独だから。
 肺に思いきり息を吸う。海の匂いはいつもと変わらず潮臭く、辛く、そして恋しい香りがした。砂浜へ行こうとキキョウは思った。平たい砂浜なら水深が浅いから海辺で泳ぐことができる。まだ冷たすぎるだろうか。乾いた大きな布を用意すればきっと平気だ。だって季節は爛漫と小花咲き乱れる、春。
 ぱしゃん、潮水の粒が弾ける。
 海中でばたつかせた爪先に、キキョウは大きな海を感じた。







よんに捧げる一作。
うーん、私は書いてて楽しいですが、読者様的にはどうなんだろうと反省してます。
しかも1度こういうの書いて満足してたはずなのに、違った角度を見てみたくなって似たようなのをまた書いてしまう。
こんなよんが好きなの、ごめん!(笑)

20080325