行動を起こしたのは、油蝉のかき鳴らす不協和音がじっとり聴覚へ絡みつくような昼下がりであった。
息を詰めて、そっと起き上がる。
痛まないところのない関節をぎこちなく動かす。
寝台の上で少しずつ足をずらして、ようやっと爪先が床へ付くまで五分はかかったか。
骨のごりごり鳴るような感触に体中が不快な汗で濡れそぼった。
立ち上がろうとする。
震える腕へできる限りの力を込めて寝台の端を握り締める。
足裏に全力を込めるも、膝がうまく突っ張ってくれない。
しゃんと立てずにずるずる床へ沈み込んで、それでも壁を支えに何とか一歩踏み出してみる。
ルックは、脱走を試みていた。
誰かが身動きすると、身体や武器へ宿しているらしい下位紋章の波動がちりちり皮膚を灼くのでそうと知れる。
扉の外へ五名、廊下へも五名ほど。
階下にも数個の紋章があるし、この分では建物の入口にも幾人かが控えているのだろう。
空調のない部屋は淀むような熱が鬱屈していたが、寒暖の感覚もまだ戻らないためただ目が霞むとだけ思う。
それでも勝手に頭は眩暈を起こし、背にどろりと汗が伝った。
ルックは窓へ向けてゆっくり歩を進める。
右にはほとんど力が入らない。
重心を掛ける左足はところどころ切り傷が開き、うっすらと朱線が夜着に移った。
痛みをこらえるたびに食いしばった唇から血が滲む。
血は汗の塩辛さと入り混じって、まるで戦場のような鉄臭さを醸していた。
ルックが保護――または監禁されているのは、ビュッデヒュッケ城敷地内、噴水のある広場に開業する宿屋の二階角部屋である。
元は倉庫か何かだったものを後から改造したのだろう、こじんまりし過ぎた狭苦しい正方形の部屋は、ベッドと作りつけの戸棚しか置かれていない。
窓は東と北に一つずつ設けられていて、北側は小さな嵌め殺し。
東方は外側へL字型に幅数十センチほど手摺りが迫り出しており、出っ張りに植木鉢が二つ並べられていた。
脱出するならここからだろう。
ルックは鈍い手つきで窓の鍵を上げた。
錆びついてなかなか回らないのか、ルックの腕力が低下し過ぎているのか。おそらくどちらの要因ともそれなりに作用して、鍵の動く頃には手の平まで赤く腫れた。
窓を開け放つ。
ふわり。
逍遥。
風が、歓喜を伴って室内に滑り込む。
「……感じる……」
ルックは思わず瞼を翳して角膜を外界から遮った。
風が身に纏いつく。
風の音が聞こえる。
風は涼やかに吹き抜けて、色のないルックの唇を奪い去った。
肉体の機能は悉く低下、いたるところ痛みに遮られて五感もほとんどあてにならない。
されど風だけは著しく鮮明に捉えることができたのだ。
右手の紋章が壊れていない証拠でもある。
ルックは傾けた首を上腕に擦りつけて額に浮く汗を拭うと、そのまま右手を眼前へ掲げてみた。
真なる風の紋章は沈黙している。
ルックは右手を風に揺らめかせた。
右手といっても肘から先はほとんど動かない。
麻酔を打った後のような痺れる虚脱感があるのみだ。
肩の辺りまでしか神経が反応しないため、肩を大きく回して目の高さまで手を持ち上げるのが精一杯。
疲労の限界だ。
右手を重く下ろす。
一旦窓際に背を預けて座り込み、息を整える。
風を遊ばせながら、ルックはしばし目を閉じた。
レックナートと過ごした魔術師の塔でルックは魔力の研鑽に余暇のほとんどを費やした。
もともと素質は充分にある体だから、四六時中鍛えていれば当然、宿星のひとりとして解放戦争へ参加する頃には紋章術において右に出るものなしと言われるまでになる。
あの時はそれでいいと思っていたのだ。
ひとの優劣は出自でなく能力で決まると、そう思えていたのだ。
それが突然足元から崩れたのはデュナン統一戦争の終結時。
ルックは誰か人間に愛される資格なんてない。誰かひとを愛する資格も、無い。
そもそもこんな感傷を持つことができる体ではない。
気づいてしまったらもう多くのひとの間にはいられなくて、――彼のそばには、思い出すらも、残したくなくなった。
たまらなかった。
だからすべて打ち砕いた。
渾身の力。
デュナン湖のほとり、青い青い水中へ光を投じる。
深い蒼黒へ金光は飲まれ、見上げた空にはひとひらの雪。
(溶けてしまいたかった……)
初めて己を、己の肉体を生んだ世界を憎んだ。
宿星としての役目を果たしたら師の元へ戻らねばならない。
しかしレックナートには天山の峠で簡単な報告を行ったのみで、ともに魔術師の塔へ帰らなかった。
レックナートも止めようとはしなかったから、今思えば、師には先が視えていたのだろう。
ルックはそのままハルモニアへ留学した。
もちろん素性を偽り、推薦書状を適当にでっちあげてである。
ルックは己の人工であることは知っていても、なぜつくられたのかは知らなかった。
つくられたルックに紋章へ抗う未来が運命づけられたのは、本来のつくられた理由と同一ではない。
ではなぜルックが生み出されたのか。
もちろん、宿主を選ぶという真なる紋章の受け皿としてつくられたのは分かっている。
だからルックはハルモニアの真意をこそ探りに行ったのだ。
なぜ紋章を集める必要があるのか。
真なる紋章の望む未来をハルモニアは承知しているのか。
もしかしたら、ルックの生みの親はとてつもなく深遠で誠実な目的を持っているのかもしれない――例えば、紋章を介して神に挑戦する、というような。
これまでの歴史を見れば事実がどうであるかくらいわかるだろうに、それでもなお直接確かめたいと思ったのは、単にルックの期待、甘えであった。
そして、期待を裏切り予想を裏切らず、ハルモニアの目的はすぐ知れる。
レオン=シルバーバーグの血を引くアルベルトに出会ったからだ。
ハルモニアの目的は、あらゆる力を手中におくこと。
全世界を統べる独裁者……荒唐無稽な夢物語だ。
しかし実際にそのため師の村は滅ぼされ、多くの国は屈服し、ルックはつくられた。
そんな馬鹿げたことのためにルックはつくられたのだ。
存在の無意味。
神になりたがった男の、誰かを想う価値もないクローン。
ルックは己を軽んじた。
そしてルックは決意するに至る、ハルモニアの野望を粉砕しようと。
垣間見えるだけだった未来はこの頃いよいよ顕然と現れるようになっていた。
ルックが風の紋章を砕くことで、ハルモニアへの復讐が成るのみならず、いずれ人類を淘汰する圧倒的な神力から人類を解放することができるのだ。
この汚れた目的で作られた物体にはあいつを想う価値がなくとも、あいつの未来を守ることができるのなら、それはルックにできる最大の愛情表現となり得る。
ルックは次第に当初の目的を忘れ、人類の救済という響きにのみ拘泥していった。
神殿の奥深くへシンダルの秘術が隠匿されていると知り、幽閉されていたセラを手に入れることで、人類の牢獄を破壊せしめる礎にならんという使命感が形成され、それは本来の歪んだ劣等感を分厚すぎる被膜で覆う。
ルックはもう迷わなかった。
痛み。
苦しみ。
感受範囲を遥かに凌駕する、快感。
強烈な感覚に上っ面の思考を全部持っていかれて、ルックに残ったのは。
……愛、だった。
自分はこの男に見合うだけの魂になりたかった。
この男の未来を守りたかった。
あれほど堅牢で、自身の本音さえ押し潰していた建前の檻を、あいつは一夜にして解放せしめたのだ。
人類の救済は今でも正しいと思うし、そのため幾人か幾百万人かの命が費やされることになっても、紋章の支配を打ち払うことはひとが自由な魂として生きるために避けられないプロセスである。
ただ、ルックは、その過程へ己が抹消を組み込まずにはいられなかったのだ。
ルックの死とともに世界が救われる方法しか考えようとしなかった。
愛せないなら、愛のために死ぬしかない。
いつの間にか根ざしていた自己犠牲――言い換えればそれは、自殺願望であり、破壊願望であったかもしれない。
ルックは、百万の命より、ただひとりの未来だけを希んだのであった。
(どうせあいつが来るだろうから、ここで待っていても、いいかもしれない)
他人任せな愚考が疲れきった脳裏に浮かぶ。
きっと迎えに来てくれて、大人しくしてるなんて思わなかった、と揶揄されるだろう。
そしたら自分は拗ねたふりをしてあいつに宥められるのだ。
もう体が動かないから、それでいいかもしれない。
(でも……)
あいつはルックが自力で何か仕出かすと読んでいる。
どうせならあいつの予想通り、いやその先を行ってやりたいではないか。
そして、そこまでやらかすなんて思わなかったと言わせたい。
結局ルックは、いくつになっても、己の才覚を示威する場があれば最大限活用する性質なのだ。
それは出生で卑下されることを厭うたからでもあるし、何よりルック自身が、たとえこの体がひとでなくとも己を誇れる男でありたいと願っていたからである。
(大丈夫)
ルックは深く呼吸する。
もう大丈夫だ。
限りなく不安定な、されど限りなく尊いものを手にしたから。
何度つまづいてもやり直せる。
風にするりと頬を撫でられ、ルックは瞼を持ち上げた。
壁に手を付く。
床を踏みしめる。
(立ち上がれる!)
ルックは外の手摺りを掴む。
数十センチもない出っ張りへ片足を掛ける。
宿屋の東側、ビュッデヒュッケ城の敷地をぐるりと巡る土塀との距離は目測で一メートルほどだ。
飛び越えられないことはない。
見張りの姿も見当たらず、もしかしたらルックの低下した視力で捉えられないだけかもしれないが、あのちりちりする痛みは近くにないので表側に人員を割いているのだろう。
まさかここを乗り越えんとは思うまい。
勢いをつければ何とかなるだろうと、ルックは息を吸って顎を引いた。
ふと見えるのは植木鉢。
咲くのは赤い、紅い薔薇。
もっと強い色彩をルックは知っている。
何より得難い喜びの色だ。
「……アスフェル」
ルックは呼んだ。
関節の悲鳴を聞かずぐいと腕を引き寄せて、窓の外へ身を乗り出す。
重たい体は簡単に持ち上がった。
風が力を貸してくれたのか。
そのままふわと全身が楽になる。
ルックは宙へ身を躍らせた。