夕照の黒い影 1





トーマスは立ち尽くしていた。
ビュッデヒュッケ城、広場で対峙する二大勢力。
ゼクセン連邦は破壊者を匿すという宿屋へ乗り込むべく大挙して詰め寄せ、グラスランドはそこが蛻の殻と知りつつもなお死守せんと鉄頭を押し返す。
トーマスにとって興味深いのは、大空洞のみならずダックの村、チシャの村、アルマ・キナンまでが同じシックスクランというだけでカラヤ族に味方したことだ。
おかげで戦力は五分五分、一触即発なれどどちらか一方に片寄らぬ睨み合いがもう半時間も続いている。
破壊者の庇護および脱走に端を発した現在の状況は、今や互いへの根深い偏見が事態の深刻化を招いたに違いなかった。
ヒューゴとクリスがそれぞれ説得を試みていたものの、両者の境界となった噴水を挟んで互いに相手を罵り合うようになっては兵たちの憎悪も高まるばかり。
こうなると誰かひとりでも得物を振れば否応なく戦いが始まることになる。
「トーマス様、今こそ城主として諍いを止めてくれませんと……」
「……あ……うん、そうだよね」
賢明にも宿屋から早々に逃げ出したセバスチャンの進言を受けて、トーマスは城本館の正面扉へ磁石のようにくっついていた背中をべりりと引き剥がした。
重い足を数歩進める。
とはいえ具体的に何をすれば良いのかなんてさっぱり分からない。
実権を持たない天魁星は、成り行き任せに本館から広場へ続く階段の最上段へ立つ。
現在トーマスの眼下へ展ずるのは、此度の戦争でもやはり払拭できなかった、ゼクセンとグラスランドの幾重にも渦巻く対立構造だ。
宿屋の破壊者は両者が仲違いするための口実。
炎の運び手も両者が一時手を結ぶための口実。
結局、主義や主張は深い怨嗟の前で何の緩衝にもならない。
つらつらと対立の原因を分析して、だが要素を抽出したところで今さらどうにもならないことを、トーマスは分かっていながらただ蒸し返し続けていた。
芝生の緑鮮やかな広場を見下ろす。
今や悪意のとぐろで見る影もない。
躊躇していればセバスチャンの責めるような目つきが背に刺さり、トーマスは居心地の悪さを隠せず肩を揺らした。
視線が何を伝えたいかなんて問うまでもない。
これは城主の仕事、城主の責任。
責任転嫁の眼差しだ。
セバスチャンの仕事は城主の仕事が円滑に片付くよう管理することであるから、城主に忠告しさえすればセバスチャンにこの騒動の罪はないことになる。
己の職務を弁えているといえば聞こえは良いが、とどのつまり、このビュッデヒュッケ城さえも、ゼクセンやグラスランドの対立を余所事としてなるべく関わらないための口実探しに必死なのだ。
ひとを取り巻く愚かな連鎖は五十年に一度の戦争くらいで容易に改善し得るものではない。
トーマスは遣る瀬無く首を振った。
こうしてただ何かを考えているのも、考えているという行動を起こしているからと言い訳にしている。
それ以外の行動を取らない口実作りになっているのだ。
悉く堂々巡り。
ひとを搦めるのは怨念の束縛。
人間が螺旋でできているとは誰が論じた遺伝子学だったか……。
トーマスは浅く息を吸う。
とりあえず何か話さねばならない。
「皆さん、落ちつ」
トーマスは義務感へ急き立てられるように口を開いた。

その時。
カラヤ族の若者が棍を大きく振りかぶるのが見えて――



忌まわしき戦闘はついに、その火蓋が、切って落とされた。





トーマスは炎の運び手による戦いに何度か出陣したことがある。
相手はハルモニア神聖国の魔法兵団だったり、または破壊者の召喚した魔物や幻覚だったりした。
もちろんトーマスは大事な城主なのでほとんど後方待機である。
各部隊の戦況を集約し、それぞれに軍師シーザーの策を伝えるのが主な役目だ。
よってトーマスはヤザ平原や平頭山の魔物以外に直接刃を振り下ろすことはほとんどなかった。
それでも数度の戦争に関わって、トーマスなりに戦争の血生臭さを充分理解したつもりである。
負傷者がどんどん運び込まれる。
治療の間に合わないまま死んでいく。
トーマスは懸命に怪我人を介抱し、そして無念を叫ぶ兵士の末期を数多く見た。
種族や信条は違えど最期の八苦は皆同じ。
トーマスは戦争を通してどの命も皆等価値であることを痛感したのだ。
そして戦争を通したからこそ戦いの必要性にも気が付いた。
だから、少なくとも、ひとの争うことに鈍感だったわけでも、自分だけ高みの見物を決め込もうとも、思っていたわけではなかったのだ。
最前線に身を浸すことこそなけれど気持ちは皆と同じに戦場へいた。
戦争をまざまざと体験した。
何も経験してこなかったわけでは、無知のままだったわけでは。
決して、なかったのだ。



しかし、かつてここまで陰惨な戦いがあったろうか。


分厚い胸板を貫き通す槍先。
鎧の継ぎ目を突き破る短剣。

憎悪、恨み、血、命、流出、血、血……。


階上から見下ろすトーマスの膝はくずおれた。
これ以上立っていられなかった。
なぜ、殺しあう。
この戦いに無意味以上の意味があるのか――例えば破壊者の横暴から国土を守るといったような、血と引き換えに得るかけがえのない何かが?
先だって破壊者の行った一方的な破壊は許せなかった。
だからといって双方通行の破壊、互いに奪い合う破壊であるならば正当化されるわけではない。
それもまた断じて許されぬ。
他を蹂躙することは、どんな状況、どんな理由の下でも等しく無残だと、トーマスは確かに知ったはずだ。
それは皆も、この戦いに関わった皆が、同じ酷さを知ったのではなかったか。

なのになぜ、殺しあう?





放心する顔に熱い血飛沫がかかった。
トーマスは呆然と「それ」へ視点をあわせる。
階上まで跳ね飛んできた「それ」が、地へ突いたトーマスの腕にぶつかったのだ。

ころ。

ころ、り。


止まる。


たまたま逃げそびれたものか。
または、たまたま広場で遊んでいたものか。

トーマスは拾い上げる。

重い。
否、軽い。
鼻腔を満たすのは単一。
ぼたぼたと垂れてこだまする。
それはあまりにも混じりけのない精彩で。
つんと痛むのは鼻。
熱く痺れるのは耳。
冷たく凍るのは瞳。

におい。
おと。
いろ。

すべての意味がひとつの事実へ収束する。


自分より一回り小さい「それ」。

――幼子の、首。


死んでいる。

死……。


(こんな……こんなことって……!!!)
抑えがたき憤怒が、御しがたき瞋恚が。
喉を突き破り脳を掻き毟る衝撃が。
何よりも理不尽な嘆きとなって温厚なトーマスを昏く染め上げた。
トーマスは自我を失して首を見る。
あらん限りの負を放ちたくなる。
血を散らせるものには血で贖いを。
命を折り散らすならばその命こそを。
理性を焼かんと炎が荒れる。
内から外へ、炎が燃える。
流されればどんなにか楽に狂えるだろう。
血の味はひとを酔わせるのに充分な濃密さで、トーマスは感じたことのない乱流へ今にも突き上げられそうになる。



ふと、首と目が合った。
焦点の合わない瞳がなぜかトーマスをひたと見つめる。

……この気持ちこそ。

絶えない戦争の源だ。

トーマスは踏みとどまった。
超えるのは簡単。
言い訳もすぐ適う。
でもそうじゃない。
憎しみは何も生まない。
(そうだ。律するためにこそ、僕は起つんだ)
憎む気持ちを制し、壊したい情動を平和への祈りに昇華する。
それこそが、戦わずに済ませることが、すべてのひとに課せられたひとらしい生き方に違いない。
言葉はそのために有り、感情はそのために在るのだ。



トーマスは腹の底からあらん限りの力を放った。

「やめろーーー!!!」