アップルは期待していた。
己の才覚では、このままルックを葬る以外に策の立てようがないのである。
少なくともアップル以上に軍師として優秀な弟子シーザーは「もっと良い方法がある」と不遜に笑うのみで、そのぬるい態度からは何を考えているのか読み取れない。
だが破壊者のブレーンだったアルベルトに完敗したと彼が感じており、そのアルベルトの主であったルックが手元にある今、兄への逆転劇を目指すのが道理というものであろう。
シーザーはきっと兄へ報復するのに充分な謀略を練っているに違いない。
さすればそれがルックにとって芳しくない企みであることは必至。
だがアップルは、アップルの選択した立場が、シーザーの作戦に加勢することしか許さないのだ。
(きっとこのひとは、そこまで分かってる)
ルックを救い出す信念があり、ルックを救い切る実行力のあるアスフェルに期待する。
それくらいしかアップルに残された方法はない。
しかも文字通り胸中密かに期待するだけで、表立った行動としてはアスフェルに対抗することしかできないのだ。
遣る瀬無い矛盾を抱えたまま、アップルは訪問者へソファを勧めた。
長針と短針が折り重なる時刻。
破壊者の覚醒から丸一昼夜が経過していた。
アスフェルは開口一番、秀麗に笑んで物騒な台詞を吐いた。
「俺が仕向けたんじゃないよ、念のため」
虫使いの行為についてである。
ルックを警護する大義名分を作るためアスフェルならやりかねないとは想像しないでもなかったが、アスフェルはそんなアップルの浅慮などすでにお見通しだったらしい。
「ルックを危険な目に合わせたくはなかったからね」
微笑んで駄目押しをされ、アップルは備え付けのポットから淹れたばかりである二人分の紅茶をこぼさないよう、カップを持つ両手に力を込めて何とか踏みとどまった。
驚愕を出すまいと足を踏ん張る。
その横顔へ、アップルの動揺など微塵も気にもかけぬ様子の穏やかな声が伸びた。
「さらにもうひとつ自慢しておくと」
アスフェルはいつになく機嫌がいい。
解放軍時代は滅多に見ることの叶わなかった会心の笑みというやつを浮かべている。
当時はアップルもまだほんの子供だったから、整った容貌で隙間なく笑うアスフェルに胡散臭さばかり感じていた。
大軍を率いて立つその様は確かに美しかったが、どこか蜃気楼のようにも見えて、アップルはひたすら反感しか抱けなかったのだ。
戦争の終結とともに恩師が死んでその思いはより強くなった。
マッシュはこんなところで死んでいい人間ではなかった。
アスフェルがマッシュを巻き込まなければこんなことにはならなかったはずなのだ。
でも、マッシュは、喜んでいた。
もっとアスフェルのために働きたいと、最期まで無茶をしていた。
……何が正しくて何が間違いだったのかわからなくなる。
アップルは自信を喪失した。
二度目の親とも思っていたマッシュの亡き後、進むべき道を見出せなくなった。
正誤の定義に迷うアップルは師の遺志を継ぐことも師のような軍師を目指すこともできなかった。
だからアップルは、ひとえに己を正当化するためマッシュの伝記を残そうと旅立ったのである。
そして三年後のデュナン統一戦争でアスフェルに再会し、当時の天魁星リツカやマッシュ門下の先輩格であったシュウから絶大な信頼を受ける英雄を目の当たりにする。
私はアスフェルに敵わない。
悔しさと諦観がない交ぜになって、アップルはより深くマッシュの伝記にばかり心を打ち込むようになった。
戦後ほどなく結婚し、すぐ離婚して、シルバーバーグの血を引くシーザーを弟子に取ってからも、アップルは伝記のためだけに旅を続けた。
することが定まっている時のアップルはすこぶる勤勉である。
伝記に関わる事実を収集するうち歴史学者として名を轟かせるようになるまで、それほど時間を必要としなかった。
そして今では、伝記を完成させてより深く歴史を追究することが他の何にも変えがたい生き甲斐となっている。
結局アップルはいくらアスフェルに感謝してもし足りない。
「アップル?」
紅茶を両手に持ったまま立ち尽くしていたアップルの代わりに、いつの間にか席を立っていたアスフェルが、紅茶を二つともテーブルへ運んでしまっていた。
気づけばシュガーポットが用意されているのみでなく、アップルのティーソーサーにはごく薄いレモンの輪切りも添えられている。
この青年は十五年も昔のアップルの好みをまだ覚えているのだ。
敵わない。
今では少しの喜びすら滲むようになったアスフェルへの敵愾心を、アップルはにこりと笑んで誤魔化した。
アスフェルと向かい合ってソファに腰を下ろす。
「ごめんなさい、自慢って何?」
「たいしたことじゃないんだけれど」
アスフェルは上機嫌な割に歯切れが悪い。
自分の消極的な回想が彼をも浮沈させるのだろうか。
つとめて明るく振舞おうと、アップルは昔のように眼鏡を指の甲で押し上げて笑った。
「ヒューゴがカラヤの腕利きを宿屋につけたわ。宿屋の方が本館から独立していて護りやすい、って、いつの間に気持ちが変わったのかしらね」
宿屋に移された守備対象とはもちろんルックである。
シーザーに口を挟ませずヒューゴの独断で采配を振るったというのだ。
リーダーの成長を見るのは、それがどんな形、どんな方向であれ、アップルには好ましく映る。
だけど心配なのは、とアップルは続けた。
「ゼクセン連邦の不満よね。連邦は結局ビュッデヒュッケ城という領地を失っただけで、この戦争で得たものが何もないもの」
「それなら騎士団が動くだろう。何ならシーザーからサロメに働きかければいい」
「サロメが評議会まで動かせるのかしら」
「ゼクセンはそろそろ評議会の権力下から離脱すべきだ。いや、言い換えれば、評議会がその在り方を変革すべきだ」
「現在の世襲制を失くすということ?」
「サロメなら平民を扇動して革命を起こし得るだろう。お誂え向きにクリス=ライトフェローという恰好の求心力がある」
アスフェルはさらりと見通してみせた。
この打てば響くような応答が、昔のアップルには薄ら寒かったのだ。
小馬鹿にされている気もしたし、アップル自身が内へ秘めている汚い感情をアスフェルはとうに見抜いて嘲笑っているかもしれないと、それを最も恐れていた。
だがアップルが成熟するに充分な年月を経た今では、手間のいらない意思疎通が気楽だと感じる。
離婚を経験するとなおさらそう思うのかもしれない。
「それで、自慢って? そろそろ教えてよ」
アスフェルの珍しく子供っぽい発言が気にかかり、アップルは再度眼鏡を押し上げて問うた。
とたん、アスフェルの顔が精彩を放つ。
まとう雰囲気がつやつやと輝いて和らいだ。
(あなた、こんなに溌剌とした表情もできるの……いえ、私が見ようとしていなかったのだわ)
昔はアップルよりもアスフェルよりもずっと年上の連中が唯々諾々とアスフェルに従っていたのも解せなかった。
だが今なら理由が分かる気がする。
昔のアップルには敬愛するマッシュやシュウしか見えていなかったのだ。
目に見えて感情を露にしたアスフェルへ、アップルはどこか郷愁のようなものを覚えてはにかんだ。
アスフェルはひそりと声を低めた。
「おかげさまで、ルックを口説くことができました」
「それって」
「少なくとも、今回と同じ方法を取ろうとはしないだろう」
「じゃなくて」
「未来への挑戦は続けるよ。それはアップルだって分かっているだろう」
「そうじゃなくって!」
「……秘密」
アスフェルはティーカップの取っ手を指先でもてあそんだ。
漆黒の瞳を彩るのは華やかな紅梅色。
官能的ともいえるその華やぎに、アップルはたまらずティーカップへ浮かべたレモンスライスに目を落とす。
何て、自信に満ちた、悟りきった、――幸福そうな顔。
知らず笑いがこみ上げる。
大丈夫だ。
アスフェルの言うことに誇張はいつだってなかった。
ルックはようやく、長い歳月を経てようやく、収まるべきところへ落ち着いたのだ。
やっとアスフェルの本願が叶ったのだと、心配性な自称親友であるところの先夫へ早く報せてやりたくて胸が弾む。
「十五年越しじゃない……」
正確には二十二年かしら、と歴史学者らしく指折り数えてみる。
アスフェルは幼いくらいに屈託なく笑った。
「シーナだな」
「みんな知ってたわよ」
「えっ?」
彼の気持ちの在り処など、解放軍の頃から誰もが知っていた、と。
人差し指をぴんと立てて――これはマッシュの癖だったのだ――鹿爪らしく教えてやれば、アスフェルの目が珍しく動揺を示して見開かれる。
「気づかなかったのは、あなたたち当事者だけ」
さきほどの仕返しとばかり駄目押ししてやる。
アスフェルは苦笑して前髪を掻き上げた。
上質の絹織物にも見紛うきめ細やかな額が、はらりと揺れるぬばたまに縁取られる。
解放軍の頃からほとんど変わらないように感じられる外見は、それでもほんの僅か青年期を過ぎた渋みが混ざったようだ。
目を奪われたことに気づくまでたっぷり一クール、口調を切り替えるのにさらに一クール。
無駄に時間を費やしたと恥じ入って、なおさら一刻の猶予もない彼の行く末を強く願う。
「アスフェル。お願い、ルックを……」
アップルはぎりぎりに抑えた声量でそれだけ絞り出した。
アップルに言えるのはこれだけで、本来ならこんな勝手な望みを口にするのも許されないのだ。
「ビッキーにも同じことを言われたよ」
アスフェルはさも当然とばかり願いを受け入れる。
叶えてみせる、と目が語る。
英雄とは、生い立ちも理念も異なる皆の願いをひとつに収束させて実現する者を言うのだ。
グラスランドで炎の英雄は何をしたか。
ハルモニア兵を全滅させ、自軍にも甚大な被害を出し、わずか五十年ばかりの安息と引き換えに己の限りある人生を満喫した。
ひととしてはそれで良いのだろうが、英雄とはそうあるべきでない。
少なくとも英雄と呼称されるには満たないだろう。
ならばヒューゴこそ同じ轍を踏むべきではない。
名実ともに炎の英雄にふさわしくあるべきなのだ。
ヒューゴをできるだけ正しい道へ導くのが三度の戦争に関わった責務であると、アップルは亡き恩師のぬくもりを思い出す。
「じゃあ」
軽い挨拶を残してアスフェルは去った。
満足に見送りもできず、テーブルに肘を付いたまま、アップルは樺茶色の水面を見つめる。
ぽとり、レモンの上に波紋が立った。
どちらへ有利な展開になっても、アップルは両者の板挟みになる。
それは軍師を志した者なら当然成すべきである、そして一週間前までのアップルは確かに為していた、どちらか一方の支持――すなわち他方の切り捨てを、今になって回避しようとしたアップルの弱さだった。
だが今のアップルには、それも愚かなれど何より強い人間らしさのように感じられる。
何が正しいのか、今もまたあやふやなままだった。