紛糾の軌道





罠にかかった。
ゲドの瞳がまだかすかに歪む。

唾棄したい思いで睨みつけ、ルックは目前の神官将へ視線を据え直した。


ササライは穢れひとつない笑みを浮かべている。
何て純粋な、疑うことをしらぬ、皆に愛されて育った半身。
今までルックはその同じ顔に憎悪しか感じなかった。
ササライへの羨望、嫉視ともいうべき醜い感情は、ルックの内に今でもわずかなしこりとなって残っている。
だがかつての憎しみは今や驚くほど薄まっていた。
ルックがようやく手に入れたからだ。
綺麗な漆黒を思い浮かべ、何か強い光をもらった心地で、ルックは毅然と双子の兄へ立ち向かう。
「……お生憎様……、死ぬわけには、いかなくなったよ」
ササライは不快な表情を見せた。
しかし態度に滲み出るのはただ余裕。
痩せこけたルックの魔力がほとんど空っぽになっていることくらい、同じ肉体を持つササライにはすぐ察知できるのだ。
いかにも人にかしずかれるのに慣れた手つきがゲドへつうっと差し伸べられる。
ルックと同じ声、同じ声紋が、まったく異なる旋律を奏でた。
「よくやったね。僕からカレリアの執政官へよく言い含めておこう」
「……有り難き幸せ」
踵がじゃりと鳴る。
ゲドの最敬礼をとった音だ。
ルックは砂ごと右手を握り締めた。
この古シンダルの遺跡を発動させる力がルックにあるだろうか。
見たところ中央の祭壇は単に大きな魔力へ反応する構造であるようだ。
また、この地へ簡単に入ることができた事実からも、新しく再建された遺跡はシンダルの力無くして起動させることができる仕様になっている可能性が少なくはないと推測される。
理論上は、とルックは忙しく熱い頭を働かせた。
もしルックでも遺跡を操作することができるなら、ゲドとルックの紋章から力を吸い出してササライ本人へぶつけることもできるはず。
うまくいけばササライは負傷、万が一真なる土の紋章からルックの時のように土の化身が現れたとしても、たった紋章二つ分の力で具現されたものなら容易に倒し得るだろう。
ものは試しか。
ルックはササライが転移の詠唱へ入るのを待つ。
ササライはゲドを招きよせて己の護衛を命じているようだ。
まもなくゆらり、ササライの周囲に大地の鼓動が湧き起こった。
土の魔力の練成である。
ぽうとササライの指輪が光り、五感がままならないルックにでさえ光として知覚できるほどの魔力が土石流のごとく拡大する。
大地が、震撼。
「……っ!」
ルックの右手が一気に灼熱の痛みをまとった。
土の魔力に反応しているのか。
右手から心臓、押し出されて脳髄へ。
血管に針金でも入れられたような鋭痛が全身を刺し貫いて駆け抜ける。
脳が沸騰しひどく熱い。
「……い、痛っ……」
ルックは呻いた。
祭壇に視点を合わせることもできなくて、砂石に頬を擦って見上げた空は、もうすっかり宵の色。
取り巻く微風がどうにかルックを守らんと意気込む様子。
されど真なる土の紋章は一息に儚い風を吹き飛ばす。
ルックは苦痛にただ身を縮めた。
手足が間欠的に痙攣を起こす。
肺まで燃える息苦しさにぐうと息が詰まる。
でも立たなくては。
ひとつくらいあいつに先んじたい。
ルックは意地だけで両腕を突っ張ろうとする。





ぎゅ、と。
体が何かに包まれた。

耳元へ穏やかに過ぎる声が聞こえて。
体はふんわり軽く浮く。


急にすきっと明瞭さを取り戻した視界。
黒々とした空気の中。
抜けるような白い闇の中。





そばに、アスフェルが、いた。










ルックは目を開く。
突如として湧いた新たな力に詠唱を中断され、土の魔力は四散した。
屈み込んで己を抱くのはアスフェル。
驚愕に身を揺らしたきり立ち尽くすゲド。
ササライはいっそ無垢なまでに憎らしい微笑を浮かべる。
その隣、アスフェルとともに転移してきたのだろう、ヒューゴとクリスが各々すらりと剣を抜いた。
一度だけ愛おしそうにルックの額へ頬を寄せてきたアスフェルはカラヤ族の衣装を身にまとっており、黒ずんだ剣を構えるヒューゴとクリスは前身ごろのところどころへ返り血らしき染みを刻んでいる。
何が起こったかはその様子からおよそ想像のつこうものだ。
ルックは最後に、アスフェルの背後へ目を遣った。
ササライの魔力へ介入し、ビュッデヒュッケ城にいたはずの三人をこの地へ転移させた術師の姿がそこにある。
術師は小さな体にゼクセンの鎧を重たく着けてアスフェルの側へ控えている。
顔は兜で見えない。
されど気配が嫌でも伝わる。
流水の紋章。
シンダルの秘術。
声にならないその声が、確かに呼ぶのをルックは聞いた。

――ルックさま。

(……セ、)


アスフェルがすいと台座へ視線を伸ばす。
ヒューゴは浅く頷いた。
ようやく腰の柄に手を掛けるゲドをさらり切っ先で制し、ヒューゴはいとも気軽に口を開く。
「あのさ。五人揃ったところで、とりあえず話し合わないか?」
ずいぶん端的な言い様だ。
「ゲドはそっち、ササライはここ。クリスはあっちな。アスフェルさんはルックをあそこへ」
ヒューゴは五行の紋章を宿す四人にそれぞれ台座の前へ行くよう促した。
手前がヒューゴ、その両隣にゲドとササライ。
奥の二つがクリスとルックだ。
ひどく迷いのない割り振りである。
思いはルックと同じだったのだろう、ササライが影なく笑んで小首を傾げた。
「なぜ台座に?」
遮ってクリスがおもむろに歩き出す。
アスフェルもルックを両腕に収めたまま続く。
ヒューゴは困った顔をした。
「何でって、紋章の模様が、ほら」
ヒューゴは手前の台座を指差し示す。
ルックもつられて目を移す。
縦に長い直方体の石造りは、いつの間にか、その四側面すべてに真なる火の紋章の文様を浮かび上がらせていた。
つるりとした表面に淡光を発す細線。
よく見れば他の台座にもそれぞれ五行の紋章が浮き出ている。
文様は最も手前へ位置する真なる火の紋章から時計回りに火、土、風、水、そして雷の順だ。
ルックは、先ほどまでは確かになかったその刻印へ知らず生唾を飲み込んだ。
この遺跡は己が思っていたよりも遥かに深遠なものであるようだ。
「ここ、前と形が違うじゃん? だから何かいいことが起きるんだ。だってシンダル族はいいやつなんだろ?」
腰の鞘へ剣を収めたヒューゴは筋の通らない理屈を述べた。
ササライが口の端だけで軽く笑う。
炎の英雄を継いだ少年の単純に過ぎる思考がどこか愛らしく思えたのだろう。
ルックからすればそこで失笑する兄もまた単純に足るのだが、やはりハルモニアの中枢ではおどろおどろしい権力争いを遣り繰りせねばならず、ササライは少なくともヒューゴより階層的な思考回路を持っているようである。
いや、もともとササライは非常に賢明なのだ。
ハルモニアの偏った教育が彼の自由かつ柔軟な発想の根本を統制してしまっているに過ぎない。
(……だから温室育ちって言うんだけどね)
ルックは密かに嘆息した。
真なる五行の紋章が周囲に四つもあるのだが、今のルックはほとんど苦痛を感じない。
ルックを抱く腕、周囲を薄っすら覆う闇のおかげだ。
生と死を司る紋章。
少し考えればわかることだったのだ。
ソウルイーターはどんなに右手の近くへあってもまったく痛みを感じなかった。
ルックがもし宿星戦争の敗北による制裁を受けているとすれば、ソウルイーターやその他五行以外の紋章に対して少しも反発の起こらなかったことが不自然なのだ。
真なる風の紋章は五行の紋章にだけ過剰に反応していた。
自身の沈黙と併せれば、風は五行を司る紋章の残り四つへひたすら警戒していたことが自ずと悟られる。
もしくは、恐怖、してもいたのではないか。
この台座のように星型を描く五行と世界の相関関係。
風は五行の均衡が破られることをこそ何より恐れていたのだとしたら。
「……兄さん」
ルックはきわめて穏便な声音で呼びかけた。
ルックの隣、ヒューゴとルックの間に位置するササライは、途端に激しい表情を現す。
「あんたの部隊は……放っといていいの……?」
ルックはササライに切り込んだ。
ゲドが目つきを厳しくする。
寸時激情をあらわにしたササライは、されどまもなく皮膜の裏へ畳み込んだ。
至極のんびり、笑って答える。
「神官将の座を追われた者には関係ないよ」
「……どうして、僕を捕らえるのに軍隊が要る?」
クリスがはっとササライを見た。
ササライの力なら、腕の立つ護衛が数名おりさえすれば、この地でルックを回収することくらい何でもない。
もしゲドがササライを裏切っていたとして、おびき出されたこの地にルックがおらず伏兵が潜んでいたとしても、ルックの不在を確認できた時点でササライは素早く転移すれば良い。
正規軍を丸ごと一部隊伴う必要はほとんどないのだ。
現にササライはまず我が身一つでこの地へ転移している。
その方が逃げるにも好都合な証拠である。
しかしゲドはササライが軍を伴ってくると踏んでいた。
なぜそう推定できたのか。
ゲドと策を立てたものが単に全可能性を考慮し尽くせなかっただけかもしれない。
あるいは、ササライがゲドへ前以って告げていたのかもしれないし、ゲドがササライへ進言していたのかもしれない。
だがここで注意すべきは、ササライが先ほど部隊を転移させようとデモンストレーションを行ったことである。
(……何も、部隊を転移させるための魔力とは限らない)
ルックはふと同じ顔の微笑に気づいた。
あの魔力はひたすら、ルックを、苦しませた。
転移の魔法がどこか外へ向かう類のものではなかったからだ。
つまり、ササライは土の紋章が働きかける対象としてごく近距離に照準を定めていたことになる。
(ササライは……あの時、僕を転移させようとしていた?)
なら合点がいく。
ゲドの目論見はとうに露見していたのだ。
ササライはそこへ便乗して一挙両得の策を授かった。
すなわち、ルックを捕獲するだけでなく、ハルモニアの正規軍を再びグラスランド内へ侵入させることへの目隠しだ。
このやり口は非常に覚えがある。
他ならぬルック自身がグラスランドとゼクセンを争わせた策に酷似している。
「……あんたの軍は……今、どこにいる……?」
ルックは問うた。
一応は問いの形式を取りながらも答えを雄弁な表情へ乗せる。
カレリアを発したハルモニア軍は一路ビュッデヒュッケ城へ向かうと見せかけていた。
ビュッデヒュッケにいた者たちはサロメが潜入させておいた諜報員の情報によりその事実を把握していたが、ルックにとってもそれはゲドの言動から明らかである。
もし部隊がカレリアからビュッデヒュッケまでを最短距離で進むとすれば、おそらくアムル平原を突っ切ってゼクセン領内に侵入、ブラス城からヤザ平原を経るルートを通ると想定されよう。
そして、魔法歩兵が多い軍隊の移動時間を概算するに、ある程度は転移で距離を稼いだとしても、全行程のうち半ばを過ぎていれば良い方だ。
となればアムル平原を領土としていたカラヤクランの滅びた今、カレリアから来たハルモニア軍と最初に衝突するのはどこになるか。
気づいたクリスの顔が強張る。
クリスは焦るあまり語頭を荒げた。
「ブ、ブラス城に、攻め込ませているのか……!!」
ゲドが息を止める。
誤算だとでも言いたげである。
だから、ササライはそれなりに頭を使えるというのだ。
ルックは鋭く双子の兄を睨んだ。
兄は飄と腕を組む。
おっとりした口調は改めず、少々笑みを深めただけで、ササライはクリスにゆるく否定した。
「まさか。……部下がうっかり先走っていなければ……ね」
クリスが目を瞠る。
ゲドが唇を噛む。

――これも、あんたのシナリオ通り?

アスフェルは、ただ穏やかに、微笑していた。







これを坊ルクだと言い張るくらいにはふてぶてしくなった坊っつんです。
これを坊ルクだと当然言い張るのが当家サイトマスターです。てへ。

20060522