私は知っていました。
あの方の覚悟、痛ましき願い。
そして永劫、私があの瞳の奥に映ることはない、と。
なれど私は従うのです。
それがいかに尊く、いかに独善であろうとも。
あなたの決めた道ならば。
進むのは人の性でしょう。
宿屋の二階、窓から城壁を越えて飛び降りる。
風が落下速度をゆるめてくれる。
だがさすがに弱った体では着地までできない。
ルックは来たる衝撃、または他の何かを覚悟して目を瞑る。
ところが。
ルックを受け止めたのは、アスフェルではなかった。
ハルモニア神聖国における南部辺境警備隊第十二小隊が一員、ゲドに率いられ、ゲドとともに楽しむ傭兵を生業とした男。
七十余年もの間真なる雷の紋章を宿す呪いを知らずしてゲドを支える仲間。
「ほんっとに、降ってきやがった……」
受け止めておいてなお信じがたいといった表情の、エースであった。
ルックはエースを見知っている。
ルビークで相対した、真なる雷の紋章を宿す男の部下だ。
そういえばあの時もエースは五行の紋章をつけていなかった。
だからルックには捕捉できなかったのだろう。
ルックは未だぼんやりと霞む視界で己を捕まえる男の両手を確認する。
ついでに男の得物も確認したが、腰の双剣は少なくともこの体勢から今すぐルックを攻撃できる位置にない。
エースは待たせていた馬へ手際よくルックを乗せると、後ろへ自分も跨って手綱を取る。
ひとまずこの場でルックをどうこうするつもりではなさそうだ。
馬の首を軽く叩いて馴らし、次いでエースはヒューィと指笛を一吹きした。
さらに遠くまで聞こえるよう、二回目。
すると鳴り止まない蝉時雨に混ざってどこからか同じ音が返る。
耳を澄ませていたエースは、してやったりとルックへにんまりした表情を見せた。
「では行きましょうかね、元神官将殿。カレリア御用達のエースタクシー、期間限定今なら無料で超特急!」
心底楽しそうな口調である。
あまりにもあっけらかんとした様子に、まだ警戒を解いていなかったルックはすとんと毒気を抜かれてしまった。
喉の痛みを堪え、ごく小さく囁くように声を出す。
「……いろいろ、聞きたいんだけど」
「んあ? 名はエース、特技は金勘定、趣味はスリル満点恋愛百万点のアドベンチャーノベル執筆活動。ちなみに処女作はビュッデヒュッケ城において大好評連載終了」
「……もういい……」
「何もかも、遺跡に着きゃあわかるだろ」
飄々とした態度を保つエースはこれ以上説明する気がないようだ。
馬首を東へ向け、鞭鐙を合わせた。
馬はどっと走り出す。
「……!!」
ルックは悲鳴を飲み込んだ。
無理やり座らされた姿勢がひどく苦痛だ。
内股の裂けるような痛みに加えて腰へ上体の体重が酷く掛かる。
思わず眉間に寄った皺を見られたらしく、エースは自分へ凭れるようルックの背を引き寄せた。
「ほらよ」
エースに体重を支えられ、塗炭の苦しみはいくらかましになる。
それでも鈍痛がなくなるわけではない。
ルックは諦めて風の匂いに気を散らした。
昼の風は、正面から勢いよくルックを包んでは楽しげに飛び去ってゆく。
南中の日差しがルックの全身を焼いた。
馬は疾走する。
振動がルックの身へ障るのもお構いなしといった速度で、休まず奔る。
突き上げる痛みにルックは息を詰めていた。
頑丈な鞣の鞍が皮膚に擦れ、切り傷のかさぶたを剥がされる。
痛覚だけ鈍らない体はどこまでも言うことを聞かず、右手は相変わらず無反応。
蹄の音が十重二十重とぶれて聞こえてくる。
ルックは五感に働きかけることを放棄した。
エースの言う遺跡とはおそらくシンダル族が残した儀式の地。
崩壊した建造物へ何の用が。
ルックは思考を巡らせる。
儀式の地は紋章を砕くために作られたものではない。
紋章の力を吸い出す装置だ。
ルックはその性質を利用して四つの紋章から吸引した力を練り上げ、己に向けて収束させた。
建物を起動させるのにシンダル族の秘術を用いるから、セラ亡き現在――彼女は死んだのだと、周囲の状況からルックはそう判断していた――あそこは無用の場所となったはずである。
(こいつに聞いても、答える気はなさそうだ)
または、「なぜ」向かうのかをを知らなさそうだ、と思う。
エースらはゲドの判断を信頼し、ゲドの決定に則って、己の良心が楽しいと感じることを実行しているようだ。
だからエースは本当に知らないのかもしれない。
ゲドかジョーカーか、その他同志のうち誰かが知っていればそれでいいのだろう。
どこか奇妙な関係である。
ルックは身の回りの出来事すべてを把握しないと気が済まなかった。
すべて理解するだけの知能は持ち合わせているし、己の行動を己の意志で導くためには自分で何もかも知る必要がある。
……と、思っていた。
だがエースらは良い意味で役割分担ができているように見える。
無知の不安を互いへの信頼で補っているのだ。
そう、信頼。
ルックが今まで体験したことのなかった感情。
もし信頼が快いものならば、エースのように己の役割を全うすることにだけ全力を注げるというのも多分居心地の良いものに違いない。
「なぁ、おい」
エースが突然口を開いた。
ルックの思索が中断される。
瞼をうっすら持ち上げてみると、エースはどこか苦い表情をしていた。
「答えなくてもいいんだけどな。お前さ、何であんなことをやらかしたんだ?」
問うてエースはしまったというように口を歪ませる。
「……わりぃ。今のは聞かなかったことに」
「あんたたちの、未来の、ためだよ」
さばけた調子で誤魔化すエースを遮り、ルックはただ毅然と応えた。
エースが瞠目する。
馬は無尽に広がる草原をひたすら東方へ走る。
追っ手も魔物も、馬を阻むものは何もない。
(――何も?)
意識を向けた途端、後ろから殺気立った風が届いた。
金物の弾かれる気配。
弓弦が空を切る気配。
ルックはようやく合点がいく。
エース以外のメンバーは遥か後ろからこの馬を護っているのだ。
無事に儀式の地へルックを運べるよう、逃走の痕跡を消し、平頭山の裏山にはびこる魔物を追い払っている。
ルックはできる限り大きく声帯を震わせた。
「水瓶の底に小さな穴が開いた。早く補修しないと、水を貯めておくことができない。でも、補修するには一度水をすべて抜かなければならない」
喉が痛む。
一気に喋ると、気管が乾いて咳き込んだ。
思い出したように全身の痛覚が過敏になり、肺の伸縮する痛みや馬の揺れる痛みがまざまざと蘇る。
ルックはしばらく噎せた。
「……水がなくなるまで生き延びるのと、誰かを犠牲にして水瓶を修理するのと」
エースは黙って聞いている。
後ろの戦闘音も止んだ。
ルックは、極めて冷たく突き放した。
「あんたなら、どっちを選ぶ?」
エースの唾を飲む音がする。
分かりやす過ぎる例えだ。
水瓶なら新しいのを買ってきてから修理すればいい。または修理が終わるまでの間だけ隣の村から水を借りればいい。
だがそんな回答をすべきでないことくらいエースにも重々分かっているはず。
エースはつとめて軽い口調を維持しようとした。
「穴の規模にもよらねぇか? もし千年くらい持つ穴だったら」
「知らないよ」
ルックは否応なく現実へ引き戻す。
エースのむっとする気配がした。
「そりゃ無責任だろがよ」
「神の領域を、あんたのボスなら計る物差しがあるって?」
「だからって他人を無作為に殺していい理由にゃなんねぇだろう」
「……そうかもね……」
「かもね、ってお前」
「それも正論かもしれない。……でも、僕は、いつか必ず訪れる終末を――その惨劇を、毎日見た」
だから。
どうにか、したかったんだ。
ルックは吐息だけで呟いた。
アスフェルのためだけじゃない、アスフェル以外にも、アスフェルが心を許す友やアスフェルとともに戦う仲間、アスフェルと関わりをもったすべての人々。
アスフェルはトランのみでなく、すべての国に住まう民を心から慈しんでいた。
アスフェルはひとが好きだったのだ。
ルックだって、ひとが嫌いだったわけではない。
いくら世界のあることを憎んでも世界中が悪いと思っていたわけではない。
究極的に言えば、ルックは生み出された自分自身と、ルックを生む原動力となった真なる紋章がこの世で最も憎かったのだ。
神を、運命を、殺したかったのだ。
「……お前はよ、優しすぎたのかも、しれねぇな」
「そう解釈できるあんたが善人なんだよ」
ルックは歯を食いしばる。
「どんな理由であれ、お前が取ったのは許される手段ではない」
いつの間にかゲドが伴走していた。
抑えた声音に怒りを滲ませて、ゲドはそれでもルックを護るつもりらしかった。
ゲドが近づいた途端身を撥ねさせるルックのために、ゲドはルックの右側へ回る。
少しでも真なる雷の紋章をルックから遠ざけるためだ。
ビュッデヒュッケ城にはお人好しが多い。
歴代の天魁星が揃ってお人好しだから、此度の天魁星に惹かれ集う宿星にも感染するのだろう。
これはなかなか冴えた仮定だ。
お人好しの丸いウイルスを想像して、ルックはそうと分からないくらいかすかに口許をゆるめた。
「何を笑う?」
見咎めたゲドがいささか剣呑に問う。
ルックはゲドと目を合わせた。
「あんたの仲間を褒めたんだよ」
「どういうことだ?」
「やっぱり、世界を、守りたい。そういうこと」
「また破壊を繰り返すつもりか……!」
ゲドが憤る。
言葉ではルックの今の心境がなかなか伝わらないだろう。
誰も何も破壊せずに、神すら肯定した上で、それでもなお世界を救う方法があるかもしれないのだ。
今までのルックには得られなかった何かを今のルックは持っている。
そして、何でも自分ひとりで背負う必要はないと知った。
だから信じることができる。
新たな手段を以って必ず世界を救うと、罪を消すつもりなく贖罪に追われるでもなく、ルックは挑み続けることをこそ決意したのだ。
そこにどんな些細な破壊も一切加わらないとは断言しきれないから、どう説明したところでゲドはルックを許せないだろう。
相互理解は難しい。
遍く人間の相互理解が可能になればこの世に争いは起こらない。
生き物が互いに相手を傷つけず生きることのできない生命であるゆえに争いはなくならず、さすれば紋章が永遠の争いを続けるのもいわば宿命。
だがルックには、それを調停する方法を見出し実行するだけの永い猶予があり、そのための永い生をともに歩む相手がいる。
きっと、アスフェルは、ずっとともに生きてくれる。
ならばいつかルックは世界を救うことができて、何百年か何千年か後にゲドと和解することもできるのだ。
……今はまだ、できないが。
(いつかできるようになるといい)
ルックは風を感じた。
馬に乗ること数刻、青を深める空の向こう。
儀式の地は近づけりと風が告げる。
生温い風が痛痒に朦朧とするルックへ遠くから映像を運んでくる。
シンダル族の遺跡。
大いなる神へ働きかける施設。
跡形もなく倒壊したはずの建造物は、どうしたものか、元通りきちんと聳え立っていた。
(風の見せるものが正しければ、だけど)
今のルックは自分の感覚もあてにならない。
ルックはゲドへ笑いかけた。
「あんたの行動は、あの無菌室育ちの指示だけ、じゃないね」
ゲドはハルモニアに属する傭兵だ。
よって、基本的にカレリアやハルモニア本国の指示に従って行動する。
だがルックには、ハルモニアが真なる風の紋章を欲していると踏まえていてさえなお、ゲドに他の意図があるように思えてならないのだ。
それはかつて参加した戦争で経験した緻密な策にも似ているし、それでいて最後は運任せの杜撰さも窺わせる。
「なぜ、そう思う」
「僕が今日逃げ出すなんて、普通は予測できないよ」
ゲドは何を言い当てられたと思ったのか戸惑う眼差しを見せた。
ルックはもう一度微笑みかける。
言葉を封じられ、ゲドは馬足を速めてしまった。
背中越しにエースがくつくつと苦笑する。
エースは喉を鳴らしながら、お前な、と耳元へ吹き込んでくる。
「うちの大事な大将を照れさせるなよ。あれでもお前の三倍は爺さんなんだぜ」
ひゅんと、後方でボウガンの唸る音がした。
ジャックは職務に忠実だ。
矢はエースの脇、ルックの真横をすり抜けて、斜め前に現れた魔物を正確に射抜く。
「ジャック! あぶねぇだろ!」
エースが喚いた。
ルックは再び目を閉じた。
儀式の地は、すぐそこまで迫っていた。