道心





クリスは祭壇に飛び乗った。
隣り合う破壊者の眼前を過ぎ、目指すは破壊者と同じ顔のハルモニア神聖国が神官将。
わずか数歩で距離を詰める。
「ブラス城へ……!!」
クリスは脇目も振らずササライへ飛びかかった。
健やかなまでに青い礼服、その胸倉を鷲掴む。
ぎっと手のひらに布地の食い込む音がした。
「ゼクセン連邦へ侵略戦争を仕掛けるつもりか!!」
クリスは叫んだ。
悲鳴に近かったかもしれない。
掴んだ襟を勢いに任せて激しく揺さぶる。
青い式服が前後にぶれる。
……が、ササライは抵抗する素振りも示さなかった。
ただ苦しげに呻いてこう呟くのみ。
「やっぱり、野蛮だなぁ……」
野蛮。
クリスはびくりと拳を緩めた。
いかにも無邪気な翡翠の双眸が今はクリスへ注がれている。
その態度たるや他国を侵略するにしては屈託がなさ過ぎる。
破壊者と神官将、どちらの言い分が真実なのか?
神官将の視線はハルモニア特有の驕りを内包して見えるし、破壊者の表情はハルモニア特有の嘲りを含有して見える。
同じ顔、同じ声、同じくらい募る不信感。
(これでは……繰り返すばかり)
クリスの腕から力が抜けた。
軽く噎せるササライが、上等な絹の礼服から滑り落ちたクリスの指先へ、まるで何か汚いものでも見るように侮り見下した目つきを向ける。
野蛮、再びササライの口へ乗せられた言葉に、クリスは意図せずして全身を萎縮させた。
ゼクセンから見たグラスランドは野蛮。
ハルモニアから見たゼクセンもまた野蛮。
これは単に文化の相違だ。
ともに自文化以外の知識を持たぬ浅慮なのだ。
(己と異なる風習、観念に対して、他者が安易に善悪を判断することなどしてはならない)
平和を望む将として最も知らねばならない事実である。
クリスは今までそんなことさえ分からなかった。
そして同様に、ササライもまた、まだ、ハルモニア神聖国の定義しか知らぬのだ。
無駄な虚勢、無知な敵意、止まない矛盾。
クリスは思わず舌を打った。
ササライはぱんぱんと「野蛮」なクリスに触れられた首元を払っている。
「すまない……」
クリスはササライと、その背を越えてゆらり浮かび上がった血まみれのトーマスに謝罪した。
あんなにも、戦いは空虚だと知ったのに。
先ほどトーマスから示された光は眼前の怒りに容易く煽られ掻き消えたか。
人は何度でも戦いを繰り返す。
誰かが、誰もが、戦いを止めようと思える時まで、無慈悲な戦いは延々続く。
(私がしっかりしなければ)
終止符を打ちたい。
クリスは今こそ強く望んだ。
永い生と強大な力を得た自分になら実現可能である。
それすらも思い上がりだと気づかず、クリスは訥々言葉を紡ぐ。
「もし貴国が我が城へ武力を振るおうとするのなら。どうか、思い留まって欲しい。話し合いたい」
ササライは笑った。
「僕は一言も、そんなことを言ってはいませんよ」
そらとぼけるつもりだろう。
クリスは同年齢ほどに見える神官将の瞳を覗き込む。
翡翠の色はかくも純粋。
疚しさもなく虚飾もなく、人が持ち得るあらゆる汚い感情から程遠いように感じられる。
これも嘘か?
瞳の奥まで、心の底まで、偽り通すことなどできるのだろうか?
クリスは迷った。
この神官将を信じるべきか。
それとも、破壊者の示唆を信じるべきか。
同じ顔の二人、同じハルモニアの二人、同じ真なる紋章の力。
判断材料はどこにある?
「……クリスが決めろよな」
ふいに、声が割り込んだ。
ササライに隣り合う炎の台座へ片肘を突くのは憮然とした表情のヒューゴである。
クリスは思わず両目をしばたく。
ヒューゴは双子を交互に指差した。
「だって、どっちも、ほんとうっぽく見えるんだろ? じゃあどっちを選んでも仕方ない。クリスが選んだことを後悔しなきゃいいんだ」
炎の英雄ヒューゴは一回り逞しくなった。
移ろい変わるこの矛盾世界から、ヒューゴは自力で何か確かなものを掴み取ったのだ。
主義。主張。文化。価値観。
すべては移ろうものである。
だからこそヒューゴはいつでも変わらない指針を持った。
それはつい先ほどのトーマスもだし、どうやら昨日までとがらり雰囲気の変わった破壊者も。
クリスだけがまだ惑わされるのはクリスに確固たる芯がないからだ。
クリスの台座、水の紋章の模様は水面のようにざわりさざめく。
(私は、どうすればいい?)
クリスは迷う。
汗ばむ手のひらをきつく握り締める。
いつもクリスを支え導いてくれる六騎士はここにいない。
そう、クリスは永い生を得た代わりに、ずっと傍にいてくれる同僚たちを失ったのだ。
これからクリスの歩む永い時間の中で、彼らはいつかクリスより先にクリスを置いて死んでしまう。
この先クリスは彼らの助けなくすべてを決めてゆかねばならない。
もし間違っていたらどう責任を取ればいい?
あるいは、何を間違っていたといつどうやって知ればいい?
それこそクリスには分からない。
クリスはどちらにも動けなくなる。
「オレはさ」
またしても割り込むのはヒューゴ。
どれほどリラックスしているのか、頭を掻きながら笑っている。
こんな状況下で何やら照れているようだ。
「オレは、クリスを手伝う。ブラス城に行くならオレも行く」
ヒューゴはすぱんと言い切った。
迷いのない決断。
声音から窺えるのはいっそ盲目的にすら思われるほど潔い信頼だ。
ヒューゴはグラスランドにとってつい最近まで敵であったクリスをただただ信じてくれるらしい。
クリスが間違った判断をしないとは限らないのに。
クリスが嘘を吐かないとも限らないし、ヒューゴを裏切らないとも限らないのだ。
ヒューゴの激変にクリスは余計戸惑った。
「なぜ……私を信用するの?」
ヒューゴと同程度の戦闘力があるから?
ヒューゴと同じ真なる紋章を宿すから?
または、クリス自身を認めているから?
クリスには分からない。
戦い以外に道を見出すことが怖い。
渦巻く疑念をヒューゴは意に介したふうもなく、しかし深々と頷いて、さらり明るい言葉を発した。
「クリスだけじゃない。オレは誰も疑わない。そう決めたんだ」
「……どういうこと……?」
クリスの声はひどく掠れる。
目線は四方にただ彷徨する。
評議会との断てない軋轢、グラスランドとの絶えない闘争。
ゼクセン騎士団は常に何かと戦い続けていた。
戦いを、市民を守るためとばかり謳って、守るための騎士行為だと位置づけさえすれば、クリスには躊躇うことなど何もなかったのだ。
戦いによって守られたものが本当は何であるかを考えたことは一度もなかった。
いや、考えた時もあったのだ。
今のようにできるだけ客観的な立場から考えようとはしなかっただけで、クリスは、クリスが戦うことで市民は怪我をしないで済んだと、敵兵を刺し貫くたび内心にそう反芻していた。
だから良かったと安堵して、己の行為はまさに正当であると、自分自身を安心させていたように思う。
でも戦った相手は怪我をした。
いや、多く死んだ。
クリスが殺した。
クリスは自分とその周囲さえ良ければそれで良かった。
(私は……私が、)
クリスが本当に守っていたもの。
それは、終わりのない戦いに対する弁護的な価値観だったのだ。
剣を振るう正当な動機だけ。
戦いは人命を守りなどしない。
(本当は……分かっていた)
――クリスはついに、見てしまう。
己がいかに愚かであったか。
そして、誰も彼もがいかに愚かであったか。
(ひとは、どうしようもなく、愚かな生き物だ)
そんなものを守っていたのも愚鈍なら、そもそも領地を侵害しあうこと、ひいては領地を確保したがること、財産をもちたがること、安全を保障されたがること、……そして、長く生きたいと願うことすらも馬鹿げたことになる。
ひとには存在する価値がない。
……私は、存在する、意味がない?
クリスは事実に打ちのめされた。
醜悪な淵が口を開ける。
惑わされたクリスは今にも飲み込まれそうになる。
奇妙な嘔吐きが胃の底へ溜まる。
ぐうと噛み締めた口を手首で覆う。
(どうすれば)
クリスはヒューゴを仰ぎ見た。
視点がうまく合わせられない。
クリスの逡巡をしばらく見ていたヒューゴは、ことさら軽やかな口調を放った。
「オレは英雄になる。英雄はみんなを救うひとのことだ。オレは、みんなの力になるんだ」
理想論。
かつてヒューゴ自身がアスフェルをそう断じたことを、クリスは知らない。
されど理想なくして現実は理想に近づかぬ。
クリスはヒューゴをじっと見つめた。
理想とは絵空事のことではない。
どうありたいかを明確に描くことで目標を具体化する、あくまでも手段のひとつとして用いるべきだ。
ヒューゴは英雄の理想像に己を近づけようとしている。
だから、迷わない。
迷わないから、信じられる。
(私に無いものが……彼に有る)
ひとは常に矛盾を内包するものだ。
クリスだけでなくヒューゴも矛盾したことや理屈に合わないことを今も平気で口にする。
それが悪いのではない。
矛盾は、人間だからこそ、生き物だからこそ常に有る。
矛盾を否定するのは戦いを肯定するのと同じことだ。
だから、自分も相手も信じようと、あるがままを受け入れる指針を心に掲げていれば良いのだ。
ただそれだけ。
心が、強く、在れば良いのだ。
クリスはきりと翡翠を見据えた。
「ササライ……今一度聞こう。ハルモニア軍はブラス城を攻めているか?」
「嫌だな。僕は命じていないですってば」
神官将ササライは無邪気に断言する。
同じ翡翠を湛える破壊者はなぜだか優しい表情だ。
もしかしたら嘘かもしれない。
今頃騎士団の皆がクリスを待ち望みながら必死で戦っているかもしれない。
戦う相手はハルモニア軍か、破壊者に召喚された魔物たちか。
だが、クリスはさっと首を振った。
ササライを信じよう。
ブラス城の皆を信じよう。
ハルモニア正規軍を、ルックをも、信じよう。
クリスは声に光を抱く。
「私もやってみる。信じる。今、私にできるのは……此度の戦争を終わらせることだ」
きん、澄んだ音が耳の内に響いた。
網膜を覆っていた分厚い石壁が瞬時に霧散したような音だった。
クリスは祭壇をちらりと見遣る。
気配を殺して静かに祭壇へ上がるゼクセン少年兵――破壊者の一味である少女を目尻に収める。
今や視界は驚くほど晴れていた。
事物の是非がよく見える。
ひとは、生き長らえるために戦うのではない。
かけがえのない何かを残すために生きているのだ。
(決意の、証に)
クリスは腰から鞘ごと剣をほどく。
祭壇へぽいと放り投げる。
ヒューゴがオレもと気軽に短刀を投げた。
クリスとヒューゴは目を見合わせる。
クリスはようやく、にっこり笑えた。


台座へ浮かぶ水の紋章が、すらり綺麗に輝いた。







あああここでそんなに長くなるはずがなかったのにどうなっちゃってんのヒューゴ!
めくるめく坊ルクいちゃらぶはどこへいったのか…。
(多分クリスが悶々としてる間にふたりでいちゃついてるんじゃないでしょうかね、何せお姫様だっこだしね←何て適当な!)

20060606