湯殿で小憩





ほう、と深く吸い込んだ息が口からこぼれた。
筋肉をほぐすように首を回し、温い湯に足を泳がせる。
「やっぱ風呂は最高……」
久々の大浴場に、ついリラックスしてしまうアスフェルであった。





解放戦争の終結とともにトランを出奔したアスフェルは、もうグレッグミンスターに戻らないと決めていた。
しかし、都市同盟軍の若き盟主に出会い、かつての同胞に居場所を知られてしまってはこれ以上避け続けるわけにもいかない。
期せずしてアスフェルは三年ぶりに懐かしい顔ぶれと再会することになったのである。
この三年間ひたすら魔力の向上と制御を修行しソウルイーターこそおとなしくはなったが、アスフェルだけが不老の身ではいずれ皆と死別することがわかっている。
それでも家族同様に思い愛しているクレオやパーン、執事、召使いたちと再会して、しばらくはこの暖かい家庭に包まれていたいと、詮無いことを望んでしまった。
だからほんの少しだけ、同盟軍に力を貸している間だけはグレッグミンスターに留まろうという気になったのだ。


つくづく自分は甘い。


そして、できるだけ家族の元で過ごそうと決めたにも関わらず、淡い気持ちに押し流されて同盟軍の客間を陣取る自分はもっと不甲斐なかった。





「……あ」
からからと引き戸が開けられ、まさに今アスフェルが思いを馳せていた風使いの少年が風呂場に入って来た。
戸の隙間をくぐるようにして風呂場に顔を出したルックは目敏くアスフェルを認め、露骨に嫌な声を出して見せる。
「何でこんな時間にいるの。うっとうしい」
確かに、夜は一層冷え込む初冬、こんな深夜にひとり湯船に浸かるものなど普段はいないのだろう。
それでも、いくらなんでも鬱陶しいはないだろうと苦笑が漏れた。
「や、たまには大きな風呂で寛ぎたくて」
ルックは顰め面のまま風呂桶を手にし、アスフェルから最も距離のある蛇口に陣取って体を洗い始める。
はなから色好い返答など期待していないので、アスフェルはこちらを向こうとしないルックを存分に鑑賞することにした。
ゆとりのある法衣を着ていても貧相な体つきだと思っていたが、こうして風呂場での彼を見ると本当にがりがりである。
肋骨が浮いているのがわかるし、足も項も折れそうに細い。
こんな細腕で一個師団を率いているのかと素直に驚嘆し、解放軍時代はもっと細い腕でアスフェルを支えてくれたと甘酸っぱい回想に耽ろうとした辺りで、水音にはっと顔を上げた。
手早く身体を洗い終えたらしいルックが、そっと湯船に足を差し入れたところであった。
猫舌のルックらしく、熱い湯にはすぐに入れなくて爪先だけを浸している。
アスフェルにはそう熱く感じられないが、ルックはもともと魔術師の塔で水がちょっと温くなったくらいの湯浴みをしていたのだ。
解放軍時代はもっと熱いお湯だったため、風呂に入るルックをほとんど見かけないほどであった。
今宵は何としても温もりたいのか、そっと膝まで沈めているルックは足先と頬とがすでにほんのり赤くなっており、色白の肌に映えてくらりとさせられた。
アスフェルは無理やり雪肌から目を逸らし、湿気でふわりと広がった髪がほとんど濡れていないのを捉えた。
「ルック、髪洗わないの?」
「あんたには関係ないよ」
「……もしかしてルック、髪洗うの嫌い?」
「そういうわけじゃないけどっ」
「俺が洗おうか?」
「別に、後でやるからいい」
つんとそっぽを向いてしまったルックに、熱いお湯が嫌なのかな、と気を使って、アスフェルは湯船から上がりいくつかの風呂桶にお湯を掬った。
手近な蛇口で水を足し、かなり冷ましてからルックを手招きする。
こっちへおいで、と呼べば、割合大人しくルックが寄ってきた。
「座って。洗ったげる」
どうやら熱湯だけでなく、頭から湯をかぶるのが好きではないようだ。
顔にかからないように細心の注意を払ってぬるま湯を髪にかけ、ついでにかなり熱かったのだろう、真っ赤になっている足にもかけてやった。
「……ぬるい……」
「冷たすぎた?」
「ううん、ちょうどいい」
シャンプーを手に取り、よく泡立ててからルックの柔らかい髪を揉み洗った。
アスフェルの指の間を面白いくらいに髪がすり抜けて気持ちいい。
「あんたの右手、まだ冷たいね……」
風呂に浸かってもいないのに上気した頬で、ルックがぼんやりと呟いた。
「この間のグリンヒル攻防戦は、戦場に近付かないようにしてたんだ。今は制御できていても、魂がたくさんある場所でどうなるかわからないから」
「ふうん、それで食べ損なったんだ。でもここに運ばれて死んだ兵士のは喰わせたんでしょ」
「ルック……見も蓋もない言い方をするね……」
さすがのぼせてもルックの毒舌は健在だが、声に覇気がないのでどことなく愛らしい。
丹念に洗った髪をぬるま湯でしっかりゆすいで、泡の取れた髪を手櫛で丁寧に梳かしてやった。
「できた。お風呂入る?」
「ん……ちょっとだけ」
髪を洗いながらこっそり浴槽に水を足しておいたので、今度はルックも肩まで浸かることができた。
ルカ・ブライト戦での作戦の是非や次に攻めることになるロックアックスの地形から考察する攻略法など、昔のように小難しい話をふたりで他愛なく喋った。
ルックの濡れた髪が首筋に貼り付き、どうしてもそのほっそりした項に目がいってしまうアスフェルはルックに感付かれないよう気が気でなかったが、のぼせたルックにその心配はなかったようだ。
「じゃ、お先に」
さっぱりした表情で風呂場を出るルックを笑顔で見送って、上がるタイミングを逃したアスフェルはのぼせきった体を湯船の縁に腰掛けて冷ますことになった。





自室に戻ったルックは、風を呼んで髪を乾かした。
魔術師の塔では入浴の習慣がなかったので、今でも他人同士が裸体を曝け合うことに抵抗がある。
解放軍時代はアスフェルと同年代だというだけで何かと構いたがったグレミオやクレオに気を使ってもらい、魔術師の塔にこっそり帰ったり、深夜か早朝に一人で水浴びをする時間を作ってもらったりしていた。
もちろんお節介な彼らが勝手にやっただけと認識していたのでルックは礼のひとつも述べなかったが。
今となっては多くの他人と交わったかつての戦争を通じて、ひとに何かされるのはこそばゆい――これが嬉しいという心なのだと理解し始めていた。
その中でも特に、アスフェルに何かをしてもらうと些細なことでも強く印象に残るのがルック自身も解せなかったのだが、ルックに向けて笑いかける彼があまりにも眩かったので、きっと神々しい彼を畏怖しているのだろうと結論付けている。
夜着に着替えてベッドに潜り込むと、シャンプーの甘い香りが鼻腔をくすぐった。
湯気で霞む姿も凛々しかった。
アスフェルがもっと長く留まってくれたら良いのに。
うつらうつらしつつ頭の隅でそんなことを考え、否定するだけの理性もなく寝入ってしまった。





冬の訪れとともに、湯殿はなくてはならない施設のひとつになる。







どうしようもないくらいの日常が書きたかったんです。
ギャグだと思ってください。

20050913