読み終えて、シーナはむうと喉仏を震わせた。
「……マルロ……お前、これを本気で演らせるつもりか?」
高一にして進路をひとつに定めてしまい、足掛かりにと自主制作の映画を夢見るマルロは、自信を込めて深く頷く。
「曽根崎心中に次ぐ究極の悲恋!! ぎりぎりの愛がテーマです!!」
「……さよかい」
シーナは再度むむっと呻いた。
今日は半ドン、あと数日で春休みである。
シーナが肘を引っ掛けて乗せている東に面した窓ガラスの向こう側、誰もいない校庭を真上から太陽が焼き炙り、その空洞を突っ切るごとき乾燥を伴ってホームルームを告げるチャイムがからんころんと鳴り響く。
つまり先ほど学年末試験が終わったばかりな状況であり、春の陽気にいささか蒸す教室は今、阿鼻叫喚、まさに地獄の様相を呈してすらいる次第なのである。
「……ひっじょーうに初歩的な質問が二つほどあんだがよ」
シーナは勿体ぶって両腕を組んだ。
マルロが眼鏡をずり上げる。
「なぁに、シーナくん」
「一つめ。お前、試験勉強ってしたことあるか?」
「ないよ」
「……二つめ。これよ、『最期』ってのはどっちのことだ?」
シーナは文面を指し示す。
最終行、それはマルロが特に気に入っている一文で、主人公であるルックは誰の最期かを敢えて明言していない。
マルロは会心の笑みを浮かべた。
「そこが味噌なんです!! 見方によって、ルックくんが死んだようにも取れるしアスフェルくんが殺されたようにも読めるんですよ!! この曖昧さがオツでしょう!?」
「……で、ほんとはどっちなんだ?」
「相討ちです!!」
無理心中が受けるだの飛び散る血糊が絵になるだのと、マルロは熱っぽく語ってみせた。
シーナは等閑な相槌を打つ。
マルロは何にもわかっちゃいない。
シーナはうんざり左肘の先にある窓ガラスを見た。
教室の喧騒が四角く薄っぺらに切り取られてガラスの向こうへ表現される。
出来の悪さにおたおたと騒ぐロッテ、彼女を生温くなだめるアップル、シルビナとキルキスの仲睦まじさを通り過ぎれば教室の廊下側最前列で四方をぎっしり取り囲まれているのはアスフェルだ。
おおかた、今終わったばかりの数学で特に難しかった問題の解説でもせがまれているのだろう。
シーナは人だかりからわずかに覗く漆黒の頭髪へ校庭のサッカーゴールを透かし見た。
顔がいいからとよりにもよってアスフェルなんかへ出演を依頼した時点で、ルックが出るのも決定するしふたりが幸せに結ばれることも決められてしまっているのだ。
どうせアスフェルのことだから、うまく言いくるめて悲恋をベタ甘へ転換するに違いない。
ならばこのマルロ自信作はそう遠くない未来でありがち恋愛作へ貶められて三流のラベルが貼り付けられる。
せっかくシーナも出演するのに、だ。
今なら辞退も可能かと、シーナは窓ガラスに映るアスフェルからまだ隣で暑苦しく息巻くマルロへ視線を移すとやにわに睨んだ。
「……ん、待てよ。こうしちゃどうだ?」
ふいにシーナは思いつく。
悲恋だが成就、要は両方を満たせばいいんじゃあなかろうか。
ルーズリーフを机から引っ張り出して、シーナは乱雑な文字を黙々綴った。
殴り書くこと約十五分。
「どーだマルロ! ……あ」
いつの間にかホームルームが始まっていたらしい。
明日以降の予定などを連絡し終えた担任教師が、起立といいかけた「き」の形に口を開いてシーナを見やる。
「……マッシュ先生……。すんません」
「あとで、職員室へ」
「……マジっすか……」
かくしてそれは、担任の元へ渡ってしまった。
「……悪くは、ないですね」
ホームルームの終了後。
呼び出しをくらったシーナへ向けて、マッシュは喰えない感想を告げる。
「しかし結びにしては物足りないように思いますが」
最近は意味深長な風景とともに強引なエンディングテロップへ入ることで妙な後味を残すやり方が流行している。
しかしマッシュは安易なぼかしを好まなかった。
ホームルーム中に何をしていたかはこの教師にとってさほど大きな問題でなく、どうせ貴重な時間を費やすのだからもっと完成度の高いものにしろと、説教は専らそちらへ向くよう。
「いや、まだこれ途中なんすよ。この後ルックはすぐ死んで、アスフェルが号泣しながらルックを抱えて去るシーン、ここに坂本竜馬と沖田総司の一騎打ちが入るんっす、もちろん引き分けでいいんですけど、アクションシーンってやたらマスコミにウケるじゃないすか。で、最後はルックの遺骸に寄り添ってアスフェルも天に召されるっつう感じの神秘的なシメで、どうすかね、愛は勝ったーみたいな!」
シーナは悪びれる様子すらなく己が展望を示してみせた。
ふむ、とマッシュは顎に手をやる。
北辰一刀流と天然理心流の壮絶な斬り合いはなかなか興味深い。
竜馬が長姉に託されたという陸奥守吉行、総司が志士を斬るたびその名を口にしたという菊一文字、どちらもかなりの業物である。
しかしそれではアクションの派手さにばかり視点がいってしまい、本来のテーマであった「禁断の悲恋、かつ成就」が薄れてしまうのではないか。
「あー、確かにそうっすねぇ」
マッシュが言うと、シーナは頭の裏へ両手を組んだ。
「いっそ総司と竜馬も恋仲だった、ってのは」
「愚策です」
「っすよねー」
シーナはうんうん唸って悩む。
隣で可笑しげに聞いていた家庭科担当教師マリーが、おもむろにマッシュへ人差し指を向けた。
「面白そうな相談だね。こうしちゃどうだい?」
シーナはおおっと大げさに感嘆した。
どこか切ない、しかもアスフェルの喜びそうな展開だ。
片輪の同性愛はワイドショー向きの話題にもなるし、三文芝居の評を免れなくとも、映画監督を目指すマルロの処女作としては申し分ない出来だろう。
映画の内容は良い脚本家または原作がつけば何とでもなるものだ。
シーナはマリーと両手を合わせた。
「いい雰囲気っすね!」
「女はこういうのが好きなのさ」
「女って、マリーせんせー今いくつ……いてっ!」
失言だと思う間もなく、マリーに背中をはたかれる。
シーナはどどっとたたらを踏んでマッシュの机へ両手を突いた。
見ればマッシュは渋面を作っている。
銃創の処置が甚だ杜撰、または手首を断てば出血量が分単位何リットル、心臓への負担がどうのと計算でもしているのだろう。
シーナに言わせるなら映像と真実は必ずしも同一ではない。
つまり、この際医学的な見地なぞどうでも良いのだ。
シーナは大喜びでマルロのところへすっ飛んだ。
教室で不安げに待っていたマルロがこれを殊の外絶賛し、早速残りを付け足したことは言うまでもない。
その晩シーナは夢を見た。
人けの少ない山道だ。
旅人がふたり、ゆっくり歩く。
すりきれた袴が草葉の露をしっとり含んで、季節がふたつも移り変わったことをシーナに示す。
つやめく黒髪を秋空へなびかせる浪士は左の手首から先がない。
傍らの少年も衣の右袖を空に膨らませているから、おそらく腕ごとないのだろう。
アスフェルはルックの右側へ、ルックはアスフェルの左側へ。
ふたりは同じ歩調でひたすら歩く。
(……あ、)
アスフェルの手首、その先の指が。
ないはずの指が確かに見えた。
シーナは思わず目を瞠る。
指はぎゅうっと握り締められ、中に収まるほっそりした掌。
これもまた今はないはずの右手そのものである。
ルックの右腕がアスフェルへ絡む。
ふたりの亡手はきつく繋がれている。
他の誰にも見えない絆を、シーナは確かに、視認した。
(……なぁ、アスフェルよ)
シーナは夢中へ語りかける。
久しぶりに立ち寄ったコウアンの実家は両親がいなければ驚くほど静かで、今はトランを治める身分、しばらくここへは帰って来るまい。
じんと停滞した自邸の空気は宿屋で味わうよそよそしさにどこか通ずる。
遊学と称した道楽の合間、無性に恋しくなってこっそりこの地へ帰ってきたものの、それでシーナの望郷がすっと鎮まるわけではなかった。
シーナはこの地を懐かしんでいるのではなく、この地で出会った仲間のことをこそ懐かしんでいるからである。
(早くお前に教えてやりたい。俺は何度も、お前らのことを夢に見る)
アスフェルは戦が終わるや付き人とひっそり姿を消して、以来まったく消息が知れない。
ルックも師匠の元へ戻ってしまった。
彼らの世界は分かたれたのだ。
シーナは戦争の終結とともに散った仲間へ思いを馳せる。
やはり最後はふたりの顔が目に浮かぶ。
アスフェルがもう表舞台へ出る気のないのは構わない。
ルックもこれ以上世俗へ混ざろうとしなくて構わない。
ただ、あのふたりの糸だけは……切れずにずっと、あることを。
夢のアスフェルへ伝えたところでどうしようもないとは分かっていたが、シーナはそれでも夢のふたりを呼び止めた。
(なぁ、一度でいい、俺へ会いに来いよ。何としてでもお前らふたりを会わせてやっから)
夢のふたりはひどく自然だ。
隻腕に苦痛を感じる素振りもない。
むしろ、この状態こそが本来在るべき位置であったのだろう。
人間には己に最もふさわしい場所、よく鍛えられた剣と鞘のように、そうでなくては居たたまれないところというものがある。
夢でアスフェルは朗らかに笑う。
ルックが戯れに眉を顰める。
「……幸せすぎても、涙が出るんだ」
ふいにアスフェルの声がした。
ふたりがこちらを見つめているよう、立ち止まって手招きをする。
シーナの体は、シーナは夢の中のシ−ナが夢に与えられる風景を見下ろすばかりでそこに肉体は介在しないのだ、だからちっとも動かない。
だがふたりはなおもシーナを呼んだ。
「ルックがいると、俺は強いよ。シーナが心配しなくていいんだ」
「飛躍に過ぎる論理だね。……間違いだとは言い切れないけど」
「ほら、ルックも丸くなっただろう?」
アスフェルは肩を竦めてみせる。
その漆黒に深まる瞳へ光の雫が浮かぶのを、シーナはまざまざと夢で感じる。
「ルックといられるだけで泣けてくるんだ。おかげで泣き虫だって言われ慣れたよ」
「ほんと、不甲斐ないんだから」
「毒舌も聞き慣れたからね、そろそろ裏の意味合いも見える頃かな」
「そんなのとっくに、……もういい」
ふたりはそれきり、シーナの視線へ背を向けた。
シーナはひたすら俯瞰する。
応援すべきは不具のふたりか真なる紋章を宿す方か、夢では違いが判別できない。
どちらも同じ魂なのか、もしくは同じ輝きを放つのか。
シーナには持ち得ない何かを携えようと足掻くふたりの姿はシーナの心へ鋭く深く刻まれる。
ふたりは強く、互いにない手を結んで行った。