舌禍舌出し三番叟





明朝の騎馬隊訓練に関してどうしても今日中に伝えねばならぬ報告事項を思い出し、渋々夜間の軍主室を訪れたフリックである。
「お前ら、何やってんだ……!」
ベッドに押し倒されるアスフェルと圧し掛かるルック、あり得るといえば大いにあり得るのかもしれない無限級数の構図に、フリックはノックもせず扉を開けたことを死ぬほど後悔した。
ルックはフリックを見るなり邪魔が入ったと吐き捨てる。
アスフェルは少し目を瞠ったものの、次にはさも楽しげに口の端をつり上げてにいと笑んだ。
「無粋だな、青雷。見ての通りお楽しみ中だ」
「ほんと、いいところだったのに」
立て続けに耳を刺す非難。
小さな風使いは嘆息しながら右手に持つジャックナイフの刃を柄に折りたたんだ。
「……ナイフ?」
そう、アスフェルの脇へ左手をつくルックは、アスフェルの首筋にナイフを突きつけていたのだ。
位置はきっちり頚動脈だ。
フリックは背筋を凍らせる。
「別に、この猫被り軍主を三枚におろそうとしたわけじゃないよ。ロッド以外も使えるようになれってこいつが言うから」
しれっとルックが言い訳した。
アスフェルは笑いを噛み殺している。
どう見ても事の起こりは売り言葉に買い言葉だったのだろう。
フリックは大仰に溜息を落とした。
「にしても、そのやり方に問題がないか? もう九時前だし、とても刃物の練習には見えない体勢だぞ」
不躾に部屋へ入った己は棚上げだ。
アスフェルがちらとフリックを見上げて同意する。
「たまには正論だな」
夜の押し倒しを至極一般的かつ辞書的な意味、つまり相撲のきまり手の一としか解さないルックは「じゃあどうやるのさ」と憤った。
フリックはつい噴き出してしまう。
当代きっての名能弁家は口こそ立てどこういうところがまだまだ子供なのだ。
フリックでなくとも指南欲が駆り立てられよう。
呆れ顔はそのままに、されど堪えきれず笑いながら、フリックは乞われるままにここはこう絞めてと実戦剣術を講義してやる。
知的好奇心の旺盛すぎるルックはフリックの教えを真似てナイフの握り方を変えたりし、露骨に殺人剣へ興味を示した。
こういうところもお子様だ。
知ることにこそ意義があり、知った内容を今後どのように用いるかはおよそ二の次らしい。
ナイフに熱中するあまりルックの意識はほとんどフリックの一挙一動へ移っている。
ふいに好戦的な笑みを浮かべたアスフェルにも気づかない。
フリックがそれとなく仄めかそうとするも、その前にアスフェルは隙をついていきなりルックの脇腹を抱え込んだ。
くるり、綺麗に反転して体勢を入れ替えてしまう。
さらにルックの両手首をぎちと左手のみでひとまとめに拘束。
のみならず同時に奪い取ったジャックナイフを指先で開く。
模範演技のごとく美しく流れる動作に、フリックはうっかり見惚れてしまった。
ルックは手も足も出ない。
思い出したように身を捩って抗うも、完璧に決まったアスフェルの寝技の前では児戯も同然である。
ルックは憮然とフリックを睨む。
フリックはふんぞり返って腕を組んだ。
「ほらな、そうされたらどうしようもないだろ」
実を言うとルックは以前にも細太刀を練習しようとして、細身とはいえ振り回すと結構な重量にあえなく筋肉痛、風の方が手っ取り早いしよく切れると早々に放棄した経緯がある。
根が素直なフリックはその時もコツなど教授して、あんたみたいに筋肉だらけでできてないと罵られたばかりか、アスフェルにのべつ睨まれまくったのだ。
弱り目に祟り目の記憶はまだ真新しい。
腹癒せに、ここぞとばかりフリックはたたみかけた。
「ルックは最低限の筋力もないからどうしたって脇が甘くなる。ナイフでも扱いきれないんじゃないか」
フリックにしては随分偉そうな言い草である。
辛抱しきれずアスフェルが絶笑した。
ルックは悔しさに歯軋りする。
気位の高いルックにとってフリックの軽侮はまさに類のない屈辱なのである。
「……まだ手はあるよ、アスフェル」
目つきが剣呑に光った。
ぎゅうと魔力が収斂する。
嫌な予感。
フリックはわずか後退る。
「避けられるかな。切――」
ルックが魔法を唱えかけた。
軍内最高峰を誇る紋章の申し子得意中の得意技、風魔法レベル二、切り裂き。
たかが風の紋章とはいえルックの十八番であるから威力が通常の比ではない。
瞬時にして集う風は曼荼羅のように細やかかつ複雑、強靭な紋様を織り上げる。
「ルック、それはタンマ!!」
フリックの悲鳴など届くはずもない。
荒ぶる嵐が手加減なく放たれようとした。
フリックは頭蓋をかばう。
脳裏へ迂闊にも走馬灯がよぎる。
最後になぜかオデッサではなく故郷ノースウィンドウへ報告に旅立ってしまったビクトールとレナンカンプの地下で初めて顔を合わせた時のアスフェルが思い出されて、フリックは己があまりの惨めさに愕然とした。
(俺の人生、こんな……)
風がひょうと耳元で唸る。
針の筵へ座らされた発動までの寸陰。
ほんの一刹那がとてつもなく長い時のように感じられる。

「甘い」

アスフェルが鷹揚に囁いた。
ぱちと瞬きしたフリックが目を背ける暇もなく。



アスフェルはルックの詠唱を、唇で堰き止めた。





ルックは呆然と目を見開いている。
はっと気づいては両腕を束縛するアスフェルの手を退かそうと試みるも、圧倒的な力の差に如何ともしがたい。
ルックの抵抗はだんだん弱くなって、ついにはアスフェルへ縋りつくように目を閉じた。
「……ん、ぅ……」
ルックのものとは思えない艶めいた声が漏れる。
フリックは咄嗟に両の耳孔を手の腹で押さえつける。
聞いたと知れたら殺される、ルックだけならまだしも相手は完全無欠得手勝手無類飛切の最恐腹黒だ。
なれど視界を閉ざすことは叶わない。
余りの衝撃に瞼が言うことを聞かないのだ。
永遠にも等しい時間が過ぎる。
時計の秒針がゆうるりと十度鳴る。
ようやくアスフェルが唇を離す頃には、フリックは逃げ場を失ってただドアノブに齧りついていた。
アスフェルは糸引く唾液をぺろりと舐める。
「おまっ、舌入れ――」
禁句だ。
思わず癖で突っ込みかけて、それがいつもの余計な一言と悟るやフリックは慌てて口を噤んだ。
素早く回れ右をする。
なぜなら、見てしまったからだ。
ルックが瞳を潤ませて頬を赤らめる。
アスフェルはいつもの見せかけがすとんとほどけた顔をしている。
滅多に出さない、心底幸福そうな本心。
ルックにだけ惜しげなく愛おしむ様子を曝しているのはフリックでなくともすぐ分かる。
フリックは面映い気持ちで部屋を後にした。





報告をすっかり忘れていたことに気づくのは翌日になってからで、マッシュにあらゆる皮肉でいびり倒されたのはフリックがとことん不運だからとしか言いようがない。





献上先:衣被ぎ。さま→


愛してやまない鶴岡さまへ、恐れ多くも相互リンク御礼兼衣被ぎ。さま2000hit祝賀というダブル慶事で奉納いたしました!
「坊ルクのらぶと、それにあてられる誰かさん」というリクエストをいただきましてございます。
軽くチャラくなるようにと苦心しまして、どうでしょう、馬鹿馬鹿しく仕上がっていたら大成功です。

20060329