蜜柑色の昼下がり





アスフェルが足を止めたのは、珍しい時間に小さな後ろ姿が食堂へひとつ見受けられたからだった。手の甲を振ってグレミオを下がらせ、アスフェルは昼下りの閑散としたそこへ歩を向ける。
首を覆うくらいの金髪に、どこもかしこも頼りない肢体。麗らかな春の陽気をコンマ一ミリたりとも浴びていないだろう青白い肌。社会性など欠片も持たず口調ばかりが随分ませたその少年は、つい先日、得体の知れない星見とともに空から現れて勝手に居着いた石版守だ。
いつもは周囲に向かって鉄条網のように張り巡らされているぴりぴりした風が、今は眼前の一物にのみ注がれているようである。アスフェルの気配にもほとんど反応を示さない。
「……ルック?」
ルックは薄暗い食堂の隅へひっそり縮こまって座していた。いつも通りの法衣をまとい、いつも通りの無表情。なのに澄み渡る春告鳥のごとき存在感を周りへ凛と張り詰めさせているのが不似合いで、――いや、ルックにはそれこそが似つかわしいのかもしれない。
凍りついたように尖った背中へ声をかけながら、ついでに肩へ軽く触れてみる。すると、手のひらの下で体のびくんと揺れるのが感ぜられた。併せて金茶の髪先もそよぐ。何か、ひどく緊張してでもいるようだ。
アスフェルはルックの肩越しに顔を覗き込んだ。全神経を振り絞るような視線の先を辿れど、テーブルの上にはオレンジジュースとフランスパンがたった二切れあるのみだ。パンは真ん中あたりの最も直径が大きな部分で、いつもよりずっと薄く切り分けられているのが見て取れる。皿の端には封を開けてもいない角状のバターがこれまた未使用のバターナイフの上へ置かれたきりになっていた。
その時もやっと湧いた衝動は、アスフェルにも説明のつかない土塊だった。
ルックの向かいに座ったアスフェルへ――もちろん、なぜわざわざルックの前の席を選んで座ったのかは、蜘蛛の巣のようにしどけなく絡むばかりで正体の見極めがたい異物であったが――マリーが気を利かせてランチプレートを持ってくる。
「おや、まだひとつも手をつけていないのかい」
「……」
「パンはしっかり食べたみたいだねぇ」
「……」
声を発さず、ルックはこくりと頷いた。どうやらフランスパンはいくつか減った結果この二切れが皿に残されている次第らしい。
では、手をつけていないものとはどれだろう。アスフェルはばさりとバンダナをむしり取りつつパン以外の対象物、すなわちオレンジジュースを盗み見る。透明なグラスに注がれているのは綺麗なオレンジ色の液体で、グラスは結露し濡れている。氷が五つ、ほとんど溶けて丸く小さくなっていた。上だけ薄まり水かさの増したジュースはグラスの縁から溢れそうになっていて、それはつまり、ルックがまだ一口も飲んでいないことを窺わせるのに充分だ。
対してアスフェルへ配されたランチプレートはルックの皿を二枚並べたよりも大きかった。右へ具材とともに炒めた米、炒飯という料理が盛りつけられており、中央には焼売と青椒肉絲、左側にはサラダと玉子焼きに焼き魚。葱、鰹節のかかった冷奴も添えられている。温かい番茶も運ばれてきて、湯気がゆらりとルックの顔を霞ませた。
「……あんた、そんなに食べるの?」
ルックが目を瞠って問うてきた。そんなに、といっても十六歳の男ならこれくらいは普通の量である。ようやく本拠地を入手すること一週間、中を人が住めるよう整備したり噂を聞きつけて集まってきた同志を迎え入れたりしていて、アスフェルは息吐く間もなく忙しい。数日後には軍師マッシュの提言によりコウアンへ赴くことが決まっているため、なおさら今のうちに雑事をあらかた終えておきたいと焦っているのである。
「俺の職務は体力勝負だろう。体調管理も仕事のうちだ」
「油っこいのばっかり」
「油分も人体には不可欠だよ。不飽和脂肪酸は体内で作ることができないから外から摂取しなければならないし、炭水化物やタンパク質に比べて二倍以上のエネルギーを持つ非常に効率の良い栄養素だ。本来なら全カロリーのうち五パーセント、俺のように武道で体を動かすなら十パーセント程度またはそれ以上を油で摂ることが好ましい。――実はここの食事だと少々摂りすぎていることも否めないけれど」
栄養論はグレミオの受け売りだ。ルックは興味がないのか既知なのか、ふぅんとつまらなさそうに呟いて、手持ち無沙汰にオレンジジュースをストローでかき混ぜた。
……どこか、ぎこちない。
「嫌い?」
「――ッ別、に!」
出し抜けに問うと、ルックは途端に語気を強めた。何が、と聞き返さないあたり、ルックの関心はほとんどそちらへ振り向けられているようである。さらに勢いよくオレンジジュースをかき混ぜて、しかし決してストローへ口をつけようとはしない。溢れたジュースが一滴、つつうとグラスの側面を滑る。
人界を悉く遮断したような環境の中、底の知れない星見とたった二人で暮らしてきたというルック。もしかしたら一般的な嗜好品をひとつも知らないでいるのかもしれない。飲み物といえば水か茶くらいで、果実の絞り汁など見たこともないのではなかろうか。
「ネーブルって知ってる? ネーブルオレンジ」
尋ねれば、ルックはきょとんとアスフェルを見返してきた。翡翠のつがいがまっすぐこちらへ向けられる。同時に手放されたストローが氷に押されて大きく傾いだ。夕陽の中心を抽出したような明るいオレンジ色の飲み物は、グラスの中でストローとともにくるくる回り続ける。
「ミカン科ミカン属、ダイダイの一種でしょ。果実の頂点がへそ形に盛り上がっているからnavel、へその名がついた果樹。花は夏に咲いて実が冬に成る。果肉は蜜柑状果といって、多くの心皮よりなる合成心皮が成熟したもの」
ルックはすらすらと己が知識を披露した。感心するほど細かすぎるのは書物の引用ゆえだろう。実際に見たことがあるならそんな言い回しをする必要は全くない。
「詳しいな。そのネーブルを食べたことは?」
「……どうだっていいじゃない」
ルックはつんと取り澄ました顔をした。否定の語彙は彼の禁句に抵触するようだ。かわいいな、と思わず漏れる感想へ、我ながら子供相手にどうしたものかと苦い笑いを禁じえない。
そしてルックはようやくオレンジジュースの正体を理解したようだ。ストローへ口を近づけては銜えることをしばし逡巡、この分ではストローも初めて使うのかもしれない。血色のない痩せた唇がストローの付近を行ったり来たり、しまいにきゅっと合わされる。
ルックが躊躇っている間にアスフェルはもう炒飯を平らげていた。冷奴を味わいつつルックの様子を窺っていると、ルックは恐る恐るストローを噛み、先端に強く歯形を付ける。魚を箸先でほぐしながらできるだけ優しく微笑みかけてやれば、ルックはついに、ほんのちょっとだけ、オレンジジュースをストローで吸い上げた。
白い細管へオレンジ色が瞬刻上る。ルックが唇を離すのに伴い役目を終えたかすとんと落ちる。
ルックは、三度、それを繰り返した。
「美味しい?」
「……甘い」
思わず立ち上がりたくなるむず痒い衝動を堪え――依然としてその異物の正体は霧中であったが――アスフェルは努めて穏やかな調子で問うた。ルックはどこか不貞腐れたような表情だ。だがこれはどうやらオレンジジュースをお気に召したものらしい。顔つきとは裏腹に興味深げな手つきでグラスを横から透かし見て、グラスの根元を片手で押さえるや一気に半分ほど飲んでしまう。ごくり、ではなく、こく、と小さい音で喉が鳴った。
「あれあれ、お代わりがいるかいね?」
マリーは客の動向に目敏い。ルックがようやく飲んだと悟るや、気安い様子でルックの背中へ話しかけてきた。
「俺も欲しいな。マリー」
「青椒肉絲にジュースはあわないんじゃないかい? アスフェルも子供っぽいところがあるもんだねぇ」
「皆には秘密だよ」
肩を竦めながら、顔を顰めて人差し指を口許へ当ててやる。いかにも十六歳らしく子供っぽさの垣間見える動作だ。アスフェルがわざとそんな仕草を見せたことにマリーは大きな声量で笑った。
ルックはストローに噛み跡を残し、ちびちび残りを飲んでいる。ふ、と吐息の音がして、ジュースにぽこりと水泡が浮いた。きっと初めて吹いたのだろう。初めて体験する些細な感動は、この地における戦事へちっとも興味のなさそうなルックをちゃんと楽しませているようである。
――この時もまた強く感じた頭の芯が戦慄く気持ちを、今のアスフェルは剥がれかけた瘡蓋のようにただ放っておくしかなかった。
「ところでルックのネーブルは? オレンジ、ピンク、それともprotruding?」
「……下品にも程があるね」
「男の嗜みかな」
「そういうの基本的に入れ知恵でしょ、そいつの元宿主の」
「元宿主じゃなくてテッド。そもそも人の名前を覚えようとしないのはあまり褒められたものじゃないと思うけれど、さすがのルックでも記憶野に関して苦手領域があるらしいな」
「ちょっと、馬鹿にしないでくれる!? 覚えられるよそれくらい!!」
「なら俺の名は?」
「……アス、フェル」
剥がすのは、ずっと後のことになる。







カウンタ15000hitに雪夜さまよりいただきましたキリリク「1時代の坊ルク」でした。
1時代の前半もいいとこ、男性用便器の使い方をようやく知った頃の初々しすぎるルックです。
まさか果物すら食べたことがなかったとは、レックナート師匠の子育てには改善すべき点が多すぎるようですね(笑)
雪夜さま、素敵なリクエストをありがとうございましたv

20060913