痕跡





グレミオが死んだ。





かの命が消えゆく、鉛色の扉越しに。
増殖した人食い胞子がグレミオを食らうのを聞いた。
ごぽっと一際響いたのは、腹部に穴が開いて中身の溢れた音だろうか。
それとも、既に内臓を食い荒らされて、喉頭に詰まった血の音か。


かの命が消えゆく、鉛色の扉越しに。
軍主の仮面をかなぐり捨てて扉を叩くアスフェルの、拳が破れて皮手袋に血が滲んだ。
声はない。
世界のすべてを揺さぶる激しさで、強く強く鋼鉄を打つ。

扉の向こうから死の音が止んでも、アスフェルは絶叫に代えたその拳を止めなかった。


朽ちる肉体から解き放たれたグレミオの魂が、扉を越えて昏冥たる触手を伸ばしたソウルイーターへ、ねとりと飲み込まれるのが見えた。
みるみるその魔力が急騰する。
歓喜してか禍々しく闇色に光った右手を、アスフェルは愕然として眼前にかざした。

――喰った。

アスフェルの唇が、声もなく動いた。
それきり訪れる、耳がきんと鳴るような沈黙。





ルックはただ、見つめているしかできなかった。


優しかった付き人は、魂すら残さず喰い尽くされた。





命の賭された鉛扉を開けたのは、マッシュであった。
どうしてここへと思う前に目を遣るは、ただひとつ遺された斧。
アスフェルは触れもできずにしゃがみ込んだ。
突いた両手がぎりと床を引っ掻き、爪が剥がれて朱線になる。
その朱へ混ざるようにしてぽたぽたと雫が落ちるのを、ルックは脳裏に焼き付けた。
「グレ、ミオ……っ」
床には彼の痕跡ひとつなく、乾ききった空間を濡らすはただ守られた己の涙。
それはどんな痛みなのだろうと、経験したことのないルックには推し量る手立てもなく。
グレミオが占めていた心の分だけ穴ができるのだろう。
そう単純に結論付けて、開いた空虚に魔物が巣食う様を描いた。

ああ、魔物ではなく、ソウルイーターか。

あんたも、紋章の呪いには勝てないよ……。


監獄の外は白銀。
アスフェルが生を享けたのと同じ、寒い元旦であった。
濃紺の空が、雪に潔い境界を刷いていた。





トラン湖城へ帰還するなり、アスフェルは自室へ閉じ込められた。
とにかく休めと皆が気を使ったのだ。
生前の付き人が整えていったベッドに、アスフェルは情けなく突っ伏して泣いた。
自分のせいだとか、初めから解放軍に味方していなければとか、親友の頼みを引き受けなければとか……、そういった無駄な悔恨はない。
ただグレミオが死んだことに心が苛まれた。
確かにグレミオの魂を喰ったのは己だが、それは結果論である。
喰うために殺したのではない、はずだ。
もしソウルイーターが魂を喰おうとし、そのために近しい者を死へ誘うとしたら、テッドとアスフェルが何年も親友を続けられたはずがない。
その前にアスフェルが喰われているべきである。
そしてアスフェルが紋章を継承してからも、パーンやクレオやビクトールら、親しい者をソウルイーターが殺すチャンスはいくらでもあった。
なのに今もまだ彼らは生きているのだ。
ということは、ソウルイーターは、戦争で死んだ者の中から所有者と縁の深い魂を選定して喰いたがるのだろう。
つまり、グレミオはソウルイーターのせいで死んだのではないということである。
仮に戦争を引き起こすのがソウルイーターであるとしても、此度の戦争に関しては間違いなくアスフェルが望んで就いた座であるし、そもそもこの桁違いな殺傷力を誇る紋章なら周囲で争いが起こるのも仕方ない。
人間とは、そういうものだ。
力の溜まるところで争いが起こる。
だからアスフェルは、ひたすら、グレミオを喪ったその事実に涙した。
今まで、戦のたびに多くの同胞を喪ってきた。
そのたびアスフェルは苦しかった。
グレミオも、同じだ。
確かに幼少から傍にいてくれたかけがえのない存在だが、それ以上に、今まで亡くしたたくさんの命、そこにグレミオも加わったたくさんの亡骸へ、アスフェルは命の散ったことが辛くて泣いた。
解放軍のリーダーとして感情を抑制し続けてきた、その反動が今宵一度に来たのだろう。
泣いている自分、多くのものを亡くした自分がかわいそうでさらに泣く。
人は、突き詰めれば自分のために泣くのか。
抱えきれない感情で破裂する前に。
何と合理的で、哀しい生き物。
自分を客観的に見下ろして、アスフェルはようやく顔を上げた。
俺は俺の望むことをする。
望みのために俺は生きているのだし、それに伴う責任も犠牲も、すっかり覚悟はできている。
次はいよいよ、リュウカンに解毒剤を処方させてスカーレティシア城を攻略しなければならない。
マッシュはきっと、すでに作戦を立てているだろう。
そしてアスフェルの顔を見るなりこう言うはずなのだ、今がチャンスです、――と。
アスフェルはグレミオへ鎮魂の祈りを捧げた。
目の淵に残った涙を払って、立ち上がる。
思ったより軽く、膝が伸びた。
きりと口元を引き結んだ。

進む一歩を、踏み出した。





ルックは、ぎくりと足を止めた。
アスフェルが石版の間へやって来たのである。
ルックのもとへ、アスフェルはしっかりした足取りで近付く。
ルックは急降下する己の冷えた心を知覚した。
時刻はもうとうに真夜中。
ソニエール監獄から戻るなり夕食も摂らずベッドへ潜り込んだルックであるが、今夜はなかなか寝付けなかった。
グレミオが死んだから、という訳でもない、と思いたい。
頭まで被った布団の中で息を潜めること数刻、睡魔はルックだけを避けていったようで、冴えた頭はどうでもいいことをいつまでも紡ぐ。
宿星が死ねばどうなるのか。
欠けた宿星グレミオは、確かにソウルイーターへ喰われた。
あれがソウルイーターの呪いなら、真なる紋章の呪いは、ルックを抗いようのない運命へ導いたように、アスフェルへもその忌まわしい牙を剥くのだろうか。
宿星は一〇八つ揃って初めて奇跡を呼ぶと、師はそれだけ言っていた。
結局、紋章の呪いへは誰も打ち克てないということか。
未来は、やはり変わらないのか……。
思考は鬱々と沈む。
ついに寝るふりを放棄したルックは、石版から消えた名の痕跡を探そうとでも思ったのだろうか、自分でも分からない衝動を持て余して石版を見続けていたのであった。
だいぶ長いこと石版の前に佇んでいた。
肩掛けひとつ羽織ってこなかった体はがちがちに冷えてしまい、背筋が寒さで痛み始める。
いい加減ベッドへ戻ろうと、踵を返した時であった。
アスフェルは、遠慮なくルックの方へ歩み寄ってきた。
常ならば皮手袋に覆われている右手の、指先に巻かれた包帯がルックの視界に嫌でもちらつく。
アスフェルは笑顔だった。
「石版、見てもいいかな」
アスフェルの瞼は赤く腫れぼったい。
多分、つい先ほどまで泣いていたのだろう。
それでもきりと引き締められた口元はいつも通りの軍主らしさである。
瞳の奥は鮮烈な漆黒がいつもより薄まっていて、雪の降る日の海のように、月光を受けるところへ緩やかな瑠璃色が垣間見えた。
ルックはまじまじとアスフェルの顔に見入っていたようだった。
アスフェルが苦笑しながら顔面に手をやる。
「もう泣き止んだから、平気だ」
「平気っていうよりあっけらかんとしてるね。あんた、結構さばさばしてるんだ」
ぽろりといつもの毒舌が滑り出た。
アスフェルは意に介さない風で相槌を打った。
「覚悟なら、最初からしているから」
「そいつに呪われる?」
「いや、自由の代償に責任を果たすこと。……ソウルイーターは最初から付随的なものだし、それに、テッドの自由と引き換えだ」
アスフェルは笑った。
テッドのためだから、それでいい。
そんな考え方ができるなんて聖人君主を地でいくアスフェルくらいのものだと、ルックは目の前の男を疎ましく思った。
人間はもっと汚い。
いつかこの男も上っ面の剥がれる時が来るのだろう。
人なんて、信じられない。
不審な眼差しを向ける代わりに、ルックはやはり毒舌で返した。
「目が腫れてるよ。一応それなりに見られる顔立ちが、あんたの場合とことん台無しだね」
「水も滴るいい男、じゃないかなあ」
「腫れ過ぎ。きっと明日もそのままだろうから、せいぜいみんなに笑われたらいい」
「困ったな。ルックの言う通りせっかくの美貌が台無しだ」
「自分で言う奴ってますますむかつくんだけど」
「言ってくれる人がいなくなったからね」
「……傷付いてるならそう言えば」
ルックは眉を顰めた。
同情を引きたいなら他を当たって。
そう言おうと口を開く。
しかしそれは、アスフェルの笑みに浚われて消えた。
「この戦争に関わって、傷付いてない人はいないよ。ルックだって部下の魔法兵を亡くしてる」
アスフェルは殊更穏やかに微笑みかけてきた。
それ以上何も言わず、アスフェルはルックの横をすり抜けて、石版の前へ立つ。
そしてそっと、白い指先で石版をなぞった。
いとおしむように何度も撫ぜる。
そのまま強く、指を石版に押し当てた。
「あんた、指……」
じんわり朱が滲みる。
朱に染まる。
見ていられない。
ルックは風を呼んだ。
風は背後からアスフェルを包み、指先を癒して昇華した。
アスフェルの背は、等身大に小さく感じられる。
ぽとんと何かの落ちるのが見えた。
ルックは挨拶もかけないで、今度こそ踵を返した。
誰も人の心を慰めたり癒したりできない。
乗り越えるのを、傍で見ているだけだ。
ルックは石版の管轄者だから、最後まで見ている義務がある。
僕が、ずっと見てるから。
あんたは好きにやればいい。
アスフェルの背中を残して、ルックはなぜか自分の心が一回り強くなったようなぬくもりを抱いて去った。

「ありがとう……」

呟いたのは己だけではなかったと、ルックもアスフェルも、信じるだけの心があった。







1時代を書くなら避けて通れないと、ようやく形にしたグレミオ編です。
ヘタレどころか泣き虫だった坊様orz
でも涙脆いところがまた完全無欠なわけですよ!(え?)
タイトルはもう分かりすぎて言うのも恥ずかしいですがヴェスティージです。
ぴったり1曲分で読み終わるようにしてあるので、BGMに是非CDかけて読んで下さいね!!
ないなら買って下さい!!
…冗談です。
(でも1曲分ぴったりだったのは本当!たまたまだけど何かちゃんと合ってる気がする!←錯覚)

20051118