干戈の交





 ルックの不機嫌そうな気配、そろそろ慣れてきたなどと言えばまた癇癪を起こすだろうか。
「……あんたが今何考えたか、当てたげようか」
「俺も、ルックが何を考えていたのか、多少は分かるつもりだけれど?」
 背中合わせに互いへ凭れ、ほとんど同時に溜息を吐く。悔し紛れに互いの背中へ体重を掛け合えば、互いに深く傷へ響いて、二人揃って小さく呻いた。
 真っ青に抜ける秋晴れの朝、黄金色に染まる野原。広々とした肥沃の大地を、今は武具と争乱が、髪振り乱して不躾な様で割り込んでいる。
 最前線である。
 功を焦った赤月帝国の将校が仕掛けてきた弓、歩兵中心の戦闘は、わずか一月余りでもう五度を数えるほどだ。が、互いに目立った損益はない。大局に一石を投じるものではないからだ。
 ただし、消耗戦には稚拙すぎても死者が出ないわけではないし、武器などの補充も併せて追加する必要に迫られる。すなわち、パンヌ・ヤクタ戦の後、次に来たるべき大きな戦いのために解放軍が万全の準備を整え一致団結する機会を延ばすには、充分な規模の小競り合いである。
 軍師マッシュが次に狙うのはおそらくガラン城砦だ。これを極力無傷で攻略し、さらにクナン地方、スカーレティシア城へ攻め込むためにできるだけ戦力を温存しておきたい。敵がそこまで見越したはずはなかろうが、無駄に思えるしつこい襲撃は期せずしてこれを阻む要素のうちの一つとなっている。解放軍首脳は出鼻を挫かれた気分で帝国軍へ相対していた。
 だがもちろん悪いことばかりではない。数重ねれば小競り合いへの対処も多少は手馴れてくるものだ。五度目になる今回、マッシュはこうして軍主自らが前線へ立つことで被害を最小限に抑える作戦を取ることにした。ビクトールら旧解放軍に縁の深いものは出撃を見送らせている。
 通常なら軍主をこそ城から出さないものであろうが、生憎と解放軍主は例外中の例外である。戦闘力、兵卒力ともに数人分の役割をこなす有能多才だ。また、どうせ死んでも今なら代わりがきく存在、と見なされている節もある。つまり、今ならまだレパントやビクトール、バレリアが軍主の地位を継ぐことも不可能ではないのだ。
 さらに、マッシュはもっと先まで見越している。アスフェルがこの程度で失すような男ではないからである。
 ここでアスフェルに全軍を率いる実戦経験を積ませることがその一つ。そして、軍内にオデッサやビクトールらの部下でなくアスフェル自身の部下を増やさせることが、半年後の軍内統一に向けた目立たなくも大きな布石なのである。アスフェルのために動く駒、アスフェルその人に忠誠を尽くす賛同者。これは圧政に苦しむトランの解放という曖昧な思想よりよほど命の賭し甲斐があり、兵らの力を限界まで引き出す導線になる。
 ――と、いちいちマッシュへ説明されずとも、だいたい彼の考えはこんなところだろう。マッシュはアスフェルへ軍主としての自覚を促しているのだ。
 なのにこの失態……とアスフェルはこそり自嘲した。大きく打撃を受けた肩口は、付近の腕や首を少し傾げるだけでも体の芯をつんざいて痛み、併せてむせ返る血の臭いや湿った重さもひどくなる。さらに左太股へは骨どころか地面が見えるほどの穴があいており、致命傷こそひとつもなけれど意気揚々と凱旋するには抵抗のある有様だ。
「あんたに説明されたら余計むかつくから僕が自分で言ってあげるけど。僕が何考えてたかって、もっぱらあんたの判断ミスに他ならないね」
 ルックは背筋を少し曲げ、変わらぬ毒舌を繰り出した。
「俺に感謝しろとは言わない。が、反省の一つもないとはいただけないな」
「反省ならしてるよ。どうせならあんたにいちいち鬱陶しく介入されないとこで討ち死にしてればよかったって」
「ルック」
 珍しく、アスフェルがきつい声を出す。
 命を蔑ろに扱う物言いは大嫌いだ。この戦に関わって死んでいった者がたくさんおり、彼らは誰一人進んで死にたいなどと思わなかったはずなのだ。死にたい者は、そもそもこんな戦場へ出てくる前に、自分で首でも吊っている。
「……俺は、ルックにまず礼を言おうと思っていたんだ。新兵を庇っただろう」
「たまたまだよ。あんたがいなけりゃもっとうまくできてたんだけどね。……あんたたちの期待に副えず、レナンカンプからの古参が四人死んだ。他にコウアンからのが二人、カクのが一人」
 庇われた新兵たちは救護班を呼びに後衛へ下がらせている。だからこそできる生々しい報告だ。ルックと同じく新兵を庇い、またはルックを庇って、熟達の兵士が数名死んだ。解放軍の結成当初からオデッサにずっと付いていた者たちだった。
「俺が飛び込まなかったらルックだって大怪我どころじゃすまなかったろう」
「だから僕は今死んでもいいって言ったじゃない」
「死ぬなと言っているんだ。俺が」
 アスフェルのかたく放つ命。ぴり、と互いの背中が尖る。アスフェルは傷の痛みを煽るかのように棍を持つ手へ力を込めた。さもないと、ぬるぬる滑って手放しそうだ。
「いいか、ルック。これ以上気安くその言葉を使うな」
「玉砕、または散華、ならいいわけ」
「ルック。――考えろ」
 言葉の最後がどうにも掠れた。息がうまく継げない。出血が多すぎる。
 まさかルックが魔力を使い切っているとは思わなかったのだ。アスフェルが盾にならねばルックは敵弓兵によって串刺しにされていたに違いなく、しかしそれは他の目的、すなわち攻撃に備え練成していた魔力を自分の防御に振り向けられないためであって、決して魔力が枯渇してしまっていたからではないと見えたのである。実際にルックはその後すぐに右翼の敵を風の魔法で一掃している。
 読みが甘かったと言われればそれまでである。けれど、あの、魔術師の塔で初めて会った時に見せた揺るぎなき風の力が、たったこれしきの戦闘で尽きてしまうとは到底信じ難かった。ルックの生気は依然衰える様子がないし、現に今も、絶えない微風がルックを取り巻いているではないか。
「……レックナート様、使いますよ……」
 ぼそりと、とてつもなく低い声が恨みがましく背後に落ちた。
 左右を通常より若干広めに開けた鶴翼の陣で迎え撃つ五度目の小競り合い、ルックたち第一魔法兵団により右側の敵は先ほどきれいに薙ぎ払われた。今は左翼の味方、カミーユ率いる槍兵中心の部隊が敵へ追撃をかけている。となれば救護班はまず左へ展開すべきだろう。これから左に多くなる捕虜へも人手が要る。従って、戦局の落ち着いた右最前線で座り込む軍主の負傷に早急な対処は施せない。
 ルックはそれを見取って呟いたらしい。アスフェルの背へうんざりした感触が伝わってくる。
「あのさ、効率主義に見えて非効率的思想のあんたに言っても仕方ないんだろうけど。――二度とやらないから、今後一切アテにしないでくれる?」
「何の話だ?」
「さっきの話はまた後でいいでしょ、価値観の相違なんて戦争の勝敗には関係ないんだし」
「それはそういう表面的な問題じゃ」
「だから、しばらく黙ってて、って言ってんの」
 ルックはいきなり上体を伸ばす。あ、と思う間もなく背後ですいと立ち上がる動作。頭上へぼたり、落ちるのは血。無理だ、ルックも脇腹に裂傷がある。
「我が……真なる風の紋章よ……」
 ルックは小さく詠唱を始めた。
 アスフェルのぎょっと目を剥く気配を背中越しに感じつつ、ゆぅらり覚醒、神なる右手を揺さぶり起こす。重く引力のぶれる感覚。直下型に大気が震え、魔力の高いものなら視認できるほどの光が奔流となって天へ突き昇る。
 アスフェルは奥歯を噛み締めた。
 ソウルイーターと同じく世界を統べる神の権化、二十七つの真なる紋章である。ルックが表面へ上乗せて宿している風の紋章は先ほどの攻撃で使い切ってしまった。ゆえに右手のさらに奥、魂と融合する風なる核を、ルックは暫時解放せしめるつもりなのだ。
 ルックが力を込めて程なく、風が二人の周りへ集い出した。血と汗と涙の臭い、泥にまみれた戦場を、柔らかく拭う清明な風はそっとかしずき取り囲む。
 癒しの魔法はそう得意でないルックだが、天魁星をこのまま放置しておくわけにもいかない。ルックの使命は天魁星を助けることだ。だがルックがここまで躊躇したのは任務の阻害を懸念したからでもあった。ただでさえ真なる紋章を狙う宮廷魔術士を相手取るのに、この上ハルモニア神聖国にでも目をつけられたらどうしようもない。よって、さらなる危機を招く要素、真なる紋章の使用は禁ずべきである。……と、ルックが冷めた頭で繰り返す中身の半分は、面倒くささの言い訳ごかしに違いなかろう。
 さっきは敵を壊滅させた凶刃であった風が、今はかくも暖かく吹く。アスフェルは風に我が身を委ねる。
 この風だ。魔術師の塔で意地悪く吹いた、どうにも心に引っかかる風の波。快く頬を撫でては気紛れに去る漣のごとし。
 管弦のような詠唱に応じてアスフェルの傷はみるみる癒えた。周囲に転がる兵士らのうち命があった者も次々と全快した様子で立ち上がる。しかしたったの十余名。敵が右翼に絞って総攻撃をかけてきたため生存者は驚くほど少ない。
「――ルック!」
 突如として、ぱた、と風が去りルックは膝からくずおれた。咄嗟に両手で地面を蹴ってアスフェルはルックを受け止める。
 重傷だったはずの身体が何の違和感もなく動く。アスフェルが肩と足に負った傷は痛みの欠片もなくきれいに治っていた。ところがルックの腹部は未だぱっくり裂かれたままだ。緑の法衣は怪我から下が赤黒く染まりきっており、滲み出る濃い血が止まらない。ルックはかなりの深手で毒舌を吐き、平然と紋章を使いすらしたのだ。
 発条の止まった機械のように治癒活動を止めたルックは、広げたアスフェルの腕中へすっぽり収まりきってしまった。軽い。こんなに小さい体だったかとアスフェルへ驚愕する暇も与えず、ふてぶてしさを残す瞳がぱたり弱く伏せられる。
「……し、っぱい、した……。あんたが横にいるせいで、ソウルイーターがうるさくって、集中、できない」
「ルック!!」
「残念だけど、死なないよ……これでもある程度は治せたから」
 瞼に青く血管が透けるルックの顔を、アスフェルは胸に受け止めたまま凝視した。閉ざした睫毛を震わせてルックが細く目を開く。
 ルックは笑みさえ浮かべて見えた。
「か、完治したはずだけど……僕以外は」
 激情が喉へ迫り上がる。ルックでなければ、傷がなければ、棍撃のひとつもくれてやりたい。ルックは本当に分かっていない。世間知らずなだけではすまぬ、根本的なものをきちんと理解していない。
 ぎりと見据えた視線の先に左翼の様子が映し出された。敵は退却を始めたようだ。無理もない。左右から包囲されることを恐れ右翼の一点突破を目指した帝国軍先陣は魔法兵団にほとんど吹き飛ばされたのだ。間を置かず横っ腹を槍兵隊に殴られて、後進の兵はとっくに逃げ出している始末。こちらの損害も少なくなけれど敵方は次の戦を仕掛ける余力を失ったろう。
「――城へ戻る。点呼」
 熱を秘めた声で、アスフェルは回復した後ろの自兵へ令を発した。負傷者を探して連れ帰ること、死者はネームタグだけ持ち帰り後で埋葬に戻ることを端的に指示し、ルックの魔法、真なる紋章で命拾いした兵士たちに硬い表情で帰城を促す。
 アスフェルの腕へ寄りかかって同じように戦況を読んでいたらしいルックが、勝ったの、と瞳に浮かべて問うた。そこに喜びは見られない。勝ったならもう天魁星を護る必要もなく、ここで死んでも構わない。などと思ってやしないだろうか。
 ひょいと、ルックの軽すぎる肢体をアスフェルは難なく背中へ回した。
「……った、ちょっと! 自分で歩けるってば、これぐらい!」
「当然。もっとひどい負傷者を見つけたら即座に降りてもらう」
 本当はこうやって背負うのも傷に負担がかかってしまう。しかし、最前線から陣営まで徒歩で戻らせる方がより苦痛をもたらすだろう。一人で救護班の担架を待たせるには情緒不安定なところがあるし、先送りにした議論を早急に再開せねば、面倒くさがってしらばっくれる可能性を否定できない。
「あんた、僕のこと侮ってるでしょ」
 背中越しに感じ取ってか、ルックは拗ねた声音を出した。そういう子供っぽいところが不安だというのにやっぱりルックは分かっていない。しかし鈍さへげんなりすればルックはそこだけ素早く察知し、背中で毬栗のむくれる気配がより大きく膨らんだ。非常に扱いにくい。
「気にしすぎだよ。――それより」
 負ぶったまま城へ戻るもっともらしい言い訳を何とか一つ思いつき、アスフェルはそっと、背中のルックへ申し出る。
「ルックの血で何とか誤魔化せないかと思うんだけれど」
「鎧ならまだしも……あんたときたらいつも通りのラフな胴着で足やら肩やらに大穴開けてるじゃない。それでも軍主の負傷を察せないような馬鹿がいたら、それこそ物笑いの種だよ。だから一通り身に着けなって僕は言ったような気がするけど、あんたは棍を振り回さなくていいんだってね」
「マッシュに合わせる顔がないな」
 アスフェルが溜息を飲むのと同時、ルックも小さく吐息を漏らす。笑う気配が背中を伝う。
 とにもかくにも、まずはあれから試してみたら、そう楽しそうに囁かれるのは右側、魔法兵団の後ろへ布陣していた突撃隊のグレミオだ。こちらへ猛然と駆けてくる。
 まだ吐息だけで笑いながらルックがアスフェルの首元へ億劫そうに腕を回した。どうやら肩の血痕だけでも隠すよう。
「――ありがとう。ルック」
 左翼に上がる勝利の歓声、まるで戦争の産声だ。戦えばそれだけ虚しさばかりが増す現実を軍主の目でなく頭の隅に思考する。アスフェルの何を読み取ったのか、そうかもね、と背中伝いにルックが呟く。
 まだ十一歳の少年は、アスフェルのしなやかな背へ、ことりと小さな頭を預けた。







久しぶりに1時代序盤。
「かんかのまじえ」と読んでやって下さい。
坊ルクは結構仲が悪かったんですね、どことなくツーカーですけども(笑)

20070306