麓空を透き





大森林を抜けて北上すればドワーフの村、ひときわ広大な村長邸の深部に秘される書物蔵。
アスフェルと僕は昔取った杵柄とやらで特別に入室を許された。
ことは重大、全世界の存亡に関わるものである。
許可を得てから三日間、とにかく手がかりになりそうなものなら何でもと、僕たちはまさしく藁にさえすがる思いで珍籍の閲読に勤しんだ。
しかし、めぼしい記録はなかなか出ない。
そろそろ見切りをつけるべく散らかした本を片づけにかかったのが今日の昼。
それがなぜだかどちらからともなく、どうせならついでにこの本もとお互い気になっていた書物をひもとき始めていた。
分厚い鉄壁に四方を塗りこめられた半地下に位置する蔵からは時間を推測できる手立てが他にない。
気づけば僕の手のひらより長かった蝋燭がいつのまにやら小指の爪ほどにまで縮んでしまい、僕は今にも消えそうな蝋燭の儚く揺れる灯にようやく疲労を自覚させられる。
「アスフェル、もうそろそろ出ないと」
僕と同じように稀少な古本へ嬉々として目を走らせていたアスフェルは、本棚へもたれかかって床に直接座り込んだまま、ひゅうと間抜けな吐息を漏らした。
「……本当だ。気づかなかった」
ちゃっかり付箋を挟んで書物を閉ざし――こいつはまた読む機会があると疑わないようだ――アスフェルは悪戯を見つかった小僧のように首を竦めて苦笑する。
「さっさと行くよ。あれ持って」
僕は階上に続く扉と短くなった蝋燭へ交互に視線を送付した。
ドワーフの村長からは日の沈むまでに施錠するようお達しが出ているのだ。
せっかくの好意を踏みにじってしまったら村の反感を抑えてくれている村長に申し訳が立たない。
なのに、アスフェルはくいと僕の袖を引き止めた。
「その前にこれだけ。古語で読めなかったところがあるんだけれど……」
アスフェルは傍らに積んだ本をとんと叩いて指し示す。
見れば先ほどのものだけでなく、付箋のかかった書籍がいくつか脇へ固められている。
「まずは、これ」
アスフェルは『農業を極めよう』をぱっと開けた。
「ここ。この次なんだけれど」
僕は上からアスフェルの指先を覗き込んだ。
利の下に牛。
「すき。犂の異体字だね」
田畑を耕す際に用いるすきは犂と鋤の二種類に大別することができ、鋤は手足の力で耕す農具、犂は牛や馬に引かせる農具のことだ。
特に犂は唐鋤とも言い、この唐鋤に配置を見立てて、二十八宿が一の参宿を唐鋤星とも呼称する。
アスフェルはふむふむとやたら深刻な顔つきである。
熱心な様子で聞き終わるや、次々付箋を開いていった。
『俳句の心得百選』……数寄。
『装飾から美を考察する』……梳き櫛。
『家庭の医学』……schizophrenia、スキゾフレニア。総合失調症。
『語源由来辞典』……好兵衛。すきべえと読み、これが転じて助平、スケベとなった。
中には字が掠れて読みにくいだけのものもあり、レックナートさまのもとで黄ばんだ文献ばかり漁ってきた僕でなければ古書の解読は難しいものなのだろうかと、僕はちょっとだけ師匠に感謝をしてしまう。
「ありがとう」
十数箇所もあった付箋を取りきったアスフェルは、なぜかしみじみとした趣でもって僕ににっこり微笑みかけた。
「……? どういたしまして」
何か解せない態度だ。
が、僕はとりあえず適当に答えておく。
アスフェルは軽く俯いてぎうと拳を握ると言った。
「ルック、本当にありがとう。忘れないよ」
「?? あっそ」
犂の異体字がそんなに大切なものか。
やっぱり螺子の飛んだお坊ちゃんの考えることはよく分からない。
僕はそれより消え入りそうな蝋燭の長さの方が心配だったから、気持ち悪いくらい満ち足りた様子で笑みを湛えるアスフェルの脇腹を軽く小突いて急かす。
「行くよ」
「ありがとう」
まだしつこく謝辞を表すアスフェルに、僕はその時、蝋燭以上の興味または不安を、ほとんどまったくといっていいほど覚えなかった。
アスフェルの思惑など汲み取ってやるゆとりもなかったのである。










しんと静謐の被膜する、下弦の月が東の空へ昇る時分。
ルックの脊髄がびくりとしなった。
いやいやをするように頭を振るう。
金茶に透けて輝く鬢がシーツへ幾筋も舞い散る様は、まるで雲間を貫いて漏れ出づる陽光だ。
俺はたまらず、そのゆるく開かれた口腔へ舌の付け根を滑り込ませた。
「ねえルック、さっきの続きなんだけれど」
「……さ、……ほん……?」
「そう」
熟した鬼灯のように色づく花唇へつうと舌先を這わせて去れば、ルックはすっかり息のあがっているのを隠したがって前歯でそこをきつく噛む。
かわいい。
俺は下半身の律動をこらえながらルックへ優しく問いかける。
「こざとへんに巣窟の巣」
「……な、なに、こんなときに……ええと……隙の旧字」
「じゃあ、大嘗祭で悠紀とともに神饌の新穀を献上する国郡は?」
「す」
聞く前に、俺はルックをやんわり弄った。
「……ッ!!」
「何? 聞こえないよ」
「す……き……っ」
「もう一回」
「すき……すっ、す、きっ」
正解は主基だ。
俺はわざと、ルックが口を開けた直後を見計らっては上下に擦る。
ルックは飛び跳ねる声で必死に答える。
「す、や……っ、だめ、アスフェルっ」
「ねえ、答えてよ」
さらに摩擦。
一度だけ、彼の深くへ抽挿をする。
きゃっと小さく悲鳴があがり、ルックは強引に身体を捩って俺を無理やり脱させた。
「あんたが! 珍しく学習意欲に燃えてるみたいだから!! できるだけ手を貸すのもやぶさかではないって……なのに……!!」
きんと叫ぶや、ルックは激しい怒りに両の翡翠をたぎらせた。
風が海原を薙いで切るごとき清冷さ、ルックの両眼が爛と輝く。
俺は、迂闊にも、しばらくの間まばゆげな烈光へ見惚れてしまった。
「だいたいさっきから最中に何考えてんの、わけわかんないことばっかり聞いてきて!」
「……えっ?」
「意味が分からないって言ってるの! どんな関連があるわけ? 農具だの祭だのって!」
「……ルック……」
俺はぽかんとルックを凝視。
ルックの憤懣はもっぱら俺の不真面目な態度にばかり向いていて、俺がルックに言わせたかった二音の単語へは思い至っていないようだ。
鈍感にもほどがある。
……かわいいにも、ほどがあるよ。
意図せず両眦が下へ垂れ、俺は極上の猫なで声にて優しく穏やかにルックを呼んだ。
「ルック。……おいで」
「やだ」
「ルック」
「いやっ」
「……ほら」
ルックの瞳、外されそうな視点を逃さず捕らえ、ゆるく広げた腕のうちに誘い込む。
ルック、好きだよ。
心から。
目顔で語りかけてやれば、ルックは渋々怒気を収めて寄ってきた。
べちり、まだぎこちない動きを残す右腕で、ルックは俺の鳩尾あたりを軽く押す。
ぺち、ぺちん。
無意味な殴打を数回為すと、ようやくルックは気が済んだふうに俺の肩口へこめかみを乗せた。
「……信じらんない」
ルックは掠れた声音で呟く。
確かにやりすぎたな、と俺は殊勝に反省をする。
「ごめん。もうやめるから。……ルック、今からちゃんとしよう?」
「……嫌」
「そんなっ」
「お仕置き!」
ルックはがつんと俺をにらんだ。
能う限りの険しい眉間。
ところが俺は相好を崩す。
なぜってルックがかわいいからだ。
ルックがこちらを見てくれるときはいつでも、俺はあまりの愛しさに体中の血が沸き立つ興奮を知覚する。
勝手に頬が弛むのである。
仕方がない。
「……あんた、何でへらへら笑うわけ? 今日はもう絶っ対! しないからね」
ルックは俺の鎖骨あたりへ額をぐりぐり押しつけながら問うてくる。
その白皙に過ぎる項まで布団を引っぱり被せてやって、俺は布団ごとルックの胴を抱え込む。
気持ちよさそうな顔で俺の胸にもたれかかってきたルックは、俺にしか見せない気遣いの情を、その若葉に見紛う緑の視線へわずか含んで瞼を閉じた。
浅く、深く。
ルックの吸う息がだんだん規則的になって、しまいには一際長ぁく、溜め込んだ疲れや高ぶりをぜんぶくるめて肺から出し切る息を吐く。
ルックはそれきりしんと押し黙った。
いきなり眠ったわけではない。
ただ密やかに呼吸をし、何かささやかな音でも聞くようにじっと聴覚を研ぎ澄ましている。
……きっと今、ルックは俺をゆるしているのだ。
寛恕の言葉は彼の語圏にたくさんないし、自ら進んで言いたがりもしない。
だがその代わり、俺のそばへ留まって俺の抱擁に甘んじる――それこそが、ルックにとって俺への執着を示す精一杯のやり方なのだ。
俺はルックを抱き締める。
重なり合った胸部からルックの鼓動がとつとつ響く。
(――俺の、心臓か)
今、俺たちは同じ響きを聞いている。
同じ気持ちで重なっている。
ルックの沈黙に確信をもち、俺はルックへ囁いた。
「……好きだよ」
ルックが言えない二音の心。
本当はちゃんと俺の耳内に聞き分けられている。
今も、さっきも、昨日も今日も、そして明日も明後日も。
とたんにがばっと額をあげた幼く瞠るその面は、真意を言い当てられた驚愕の色で満ちていた。
ルックの頬が紅梅に透ける。
合わせる鼓動がどくんと一層強まったのを、俺もルックも、感じていないはずがなかった。







カウンタ1万まで辿りつきました!
ありがとうございました!!

タイトルは造語でございまして、またしても冗談のような語呂合わせです。

20060617