死神ルックその後々





 僕はその日学校を休んだ。
 曇天の空がレースカーテン越しに見えて、部屋はしっとり暗かった。敷きっ放しの煎餅布団に朝と同じ格好で、隣にあった体温の名残を手繰り寄せながら、うつらうつら、夢と夢との間を行ったり来たりしていた。
 ようやく起きたのはお昼過ぎ。
「ご飯……作らなきゃ」
 定時で帰ってくるとしてあと三時間ちょい。それまでに食材を買ってきて料理して、違ったまず服を着て顔を洗って、掃除機もかけて、昨日脱ぎ散らかした服は明日洗濯するとしても布団のシーツくらいどうにかした方がいいんだろうか。ぱりぱりしてるような……気が、ちょっとしなくもないんだよね。この辺。
「……ッ……最悪……!」
 途端に込み上げてきた昨日の記憶がどっと全身にぶり返し、僕はひとりでこれ以上ないくらい赤面した。
 僕たちは、――つまり僕、ルックと、僕の里親のアスフェルのことだ。僕たち二人は、昨日、新たな関係になった。擬似親子からちゃんとした、その、そういう……最も親密な関係に。
 思い出したら恥ずかしすぎて布団の中でぐるぐるのたうち回りたくなる。けれどどこかで心がだらしなくにやついている。滅茶苦茶だ。
 僕はのっそり起き上がった。体が重くてふらついた。痛みはないけど筋肉痛の海に頭からどっぷり浸かってるみたいだ。裸のまま洗面所へ行き、冷水で顔を洗って、タオルで顔を拭きながら鏡の中の自分を見る。
 ――見て、僕は、絶句した。





 どうしようどうしようどうしよう。
 今日はちゃんとした服を着たけど動揺のあまりまたもサンダルで飛び出してしまった。すぐに戻って運動靴に履き替えて、近所のスーパーへ向かいながら、タートルネックにぎゅうぎゅう巻き付けたマフラーを僕はさらに両手で押さえる。見られてないだろうか。気付かれないだろうか。運悪く今はちょうど高校生が下校する時間だ。こんなとこ通って帰るヤツは少ないだろうけど、もし誰か知り合いに出くわしでもしたら僕はどう取り繕おう。
 鏡で見た僕の全身は――首まで――もう思い出したくない。
 小走りで駆け込んだスーパーは、値引きの時間帯と重なったせいでやけにごった返していた。鶏もも肉が半額。ブロッコリーは二割引。特価のじゃがいもと人参、玉ねぎ、牛乳も買い物カゴに入れたら、途端にずっしり重たくなってそのまま腕に食い込みそうだ。手に持ち直す。
 これ全部家まで持って帰らなくちゃいけないんだよね。重すぎる。あとルウも買うつもりだけどこれ以上重くなったら持てそうにない。いっそメニューを変えてしまおうか。あいつが好きなのはシチューのほかに何だろう。
「おい、ルック? ルックだろ?」
 メニューをいろいろ考えていたら背後から突然呼びかけられて、僕は思わずぎくりとした。
「……ナッシュ」
 嫌なヤツに見つかった。軟派でやんちゃな三枚目のくせにかっこつけたがりの、できるだけ距離を置いておきたい同級生だ。
「お前、今日学校休んでなかったか?」
「……休んだけど何、それがあんたに関係あるの」
「クラスメイトが休んだら心配するのが普通だろ」
「僕は一日休んだくらいで万年最下位のあんたに心配されるほど成績が落ちたりはしないんだよ」
「そっ、そーゆー意味じゃ」
 制服姿のナッシュと並べば、ふいに現実へ引き戻されていくようだった。
 僕は本来、アスフェルといつか離れることを覚悟して、自活できるようにと学問へ精を出していた。いい大学へ通ってゆくゆくは大手企業に就職し、毎日深夜まで働いた後自宅には寝に帰るだけ。アスフェルに迷惑をかけない人生、アスフェルがいないことを感じるゆとりもない人生の完成を目指していたのだ。進学校の制服はその象徴であったと言っていい。
 けど今は違う。アスフェルがいる。
 そう思ったら、土曜日まではただの鬱陶しいクラスメイトだったナッシュも、同性間であり得ないコトを行った僕を咎める現実や常識の具現として僕を威圧するようだった。
 僕は無意識に首元へ手をやっている。異端の痕跡を隠そうとして。
「晩飯、カレー? ルックが作るのか?」
 ナッシュが僕の買い物カゴを覗き込んでは聞いてくる。
 僕が作る、って答えたらどうなるんだろう。親いないのか? でもこの量、誰と食うんだ? 興味本位にあれこれ問い詰められるんだろうか。
 僕は僕が養子であることをクラスの誰にも言っていなかった。だって僕はアスフェルのことが好きだから。好きな人について養い親としての部分だけを客観的に話せる気がしなかったのだ。今はもっとそう。それに言うのももったいない。話せば彼がどんなにかっこよくて優しいか、きっとみんなに知られてしまう。
「あー悪い、ここで会った偶然つうか」
 けれどナッシュが勝手に矛先を変えてくれた。ほっとする。
「俺、財布を教室に忘れちまったんだわ。明日返すから、頼む! 金貸してくれ!」
「イヤ」
「じゃあすぐ返す! キャッシュカードならあるからそこの銀行ですぐ金下ろす!」
「今行けばいいじゃない」
「もうカゴにこんだけ入れちまってるんだ」
 ナッシュが足元に置いているカゴはスナック菓子や炭酸飲料、雑誌の類で満タンだった。一瞬ぎょっとしたが、普通の高校生はこんなものかと思い直す。僕みたいに生活へ直結する買い物をする方が不自然なんじゃないだろうか。
 不自然。と、僕は不自然さを意識した途端に焦り始めた。誰と暮らしてるのか、どんな家庭環境なのか、このままナッシュと雑談を続ければ混じってくるだろうそれらの質問に、いつまでもしらばっくれていられる自信はとてもない。アスフェルと愛し合える喜びがまだ鮮烈に体内を駆け巡っていて、今も気を抜くと顔に出てきそうなのだ。
「……さっさとレジ、行くよ」
 いつもの僕なら最後まで冷たく突き放していただろうけど、隠し事に気付かれたくない負い目から、易々とナッシュに屈してしまった。
 僕は早足でレジへ向かう。シチューのルウはナッシュを引き連れてまで取りに行くのが億劫だ。ホワイトソースから手作りしよう。アスフェルがいつもよりおいしいって言ってくれたらいいんだけど。今からだと煮込む時間が少々足りないかもしれない。ちょうど鶏肉を多めに買うし、先に唐揚げか焼き鳥でも作ってつまんでおいてもらおうか。
 調理時間の配分を考えながら上の空で会計を済ませ、商品をエコバッグに詰め込んだらすぐ銀行へ。銀行はスーパーの向かいにあって、ATMへ数人が列を成していた。ナッシュが最後尾に並び、見届けた僕は店舗の外へ退避する。行内は暖房が効きすぎていて空気が悪かったのだ。
 十二月なのに外気はそこまで寒くなかった。マフラーを取ってもいいくらいだ。そこではたと思い出した僕はマフラーをぎっちぎちに巻き直す。自然に顔が火照ってしまう。アスフェルの匂いがまだシャワーも浴びていない体に染み付いているような気がして、無意味にコートの裾を扇ぐ。
「お待たせさん」
「遅いよ」
 ナッシュがようやく中から出てきた。ぽんと気安く僕の頭に手を乗せてくる。振り払うと、一万円札を僕の目の前でひらひらさせる。
「……あんたに貸したの、三千円なんだけど」
「釣り」
「七千円もあるわけないでしょ。何で千円札を引き出さないのさ」
「余裕持って二万下ろしたんだぜ」
「それじゃ万札しか出てこないに決まってるじゃない。あんた馬鹿? さっさと両替してきなよ」
「今シャッター閉まったぞ」
 僕は行内を振り返る。窓口とATMを区切るシャッターが今まさに警備員によって下ろされている。ちょうど三時だ。
 両替するなら郵便局に行くか、もう一度ATMで下ろし直すか、スーパーで何かを買って一万円札を崩すしかない。けれど郵便局は遠いしATMには何人も並んでいるし、スーパーのレジはタイムセールの影響でまだ混んでいる。早く帰らないとシチューが間に合わないじゃないか。
 僕が露骨に苛々したのを見て取って、ナッシュが済まなさそうに言った。
「ルック、もしかして急いでた?」
「謝るくらいなら最初から声をかけないでくれる?」
「そりゃあちょっとは悪いなーと思ったけどよ。ルックって意外と優しいとこあるだろ、つい甘えちまったというか。ご、ごめん! 明日朝イチで絶対返す!」
 ナッシュは僕の手を握る。僕は思わずびくっと肩を竦めてしまう。他人に触れられる嫌悪感、だけじゃない。それよりずっと、直接触れられることでアスフェルとの関係に気付かれるかもしれない恐怖が大きくて、僕は思い切りナッシュを引っ叩いていた。でもこんなのさらに不自然だ。叩いた痛みで我に返る。
 ところが間の悪いことに、どこかからパトカーのサイレンが聞こえてきたせいで、僕は再び大きく全身を震わせてしまった。気遣うナッシュが僕の額に手を当てる。僕はやっぱり振り払ってしまう。
「ルック……体調、悪いのか?」
「悪くなかったら学校休んでなんかいないよ」
「だよな。でもやたらウキウキした顔で歩いてたからさ」
「……ウキウキ……?」
「あぁ」
 優等生が珍しく高校サボってゲーセンでボロ勝ちしたのかと、と続けるナッシュの声はもはや僕に届いていなかった。
 ウキウキしていた? 僕が? 後ろ姿だけで他人にそうと分かるほど?
 僕はそれからどうやって家へ帰ってきたのか思い出せない。どうやってナッシュと別れたのかも。それくらい僕は混乱していて、エコバッグの中に一万円札がしわくちゃになって突っ込まれていて、明日七千円返さなきゃ、と思いながら皺を手のひらで丁寧に伸ばして。
 僕はシチューを作らなかった。





 がちゃ、と鍵の開く音がして、僕はテーブルから顔を上げた。
「ただいまー……電気は? 出かけてるのか、ルック?」
 靴を脱ぐ音がする。足音がリビングへ入ってくる。ぱっと部屋が眩しくなって、手提げ袋をいくつも持ったアスフェルの姿がようやく見える。
「……何、それ」
「ん? いろいろな」
「花じゃない」
「お祝いにはまず花かと思って」
 荷物をテーブルへどさりと置いて、アスフェルはとびきり嬉しそうな顔で僕の頭を柔らかく抱いた。こめかみと瞼にちょんちょんキスを落としてくれて、どろどろに溶けた吐息が耳に滑り込む。
 アスフェルが今までと全然違う。袋から花とケーキの箱とオードブル、サラダ盛り合わせ、その他数品のお惣菜とお揃いのマグカップ二つと単行本と最後になぜかトランクスを取り出している、その挙動がいちいち今までと全然違う。呆気に取られている僕を、目を眇めて振り返る時の表情も。
「何それ」
「目に留まったからついでに」
 はい、とトランクスを手渡された。今までは僕が自分で三枚セットとかの適当なやつを買っていたけど、アスフェルがくれたのはブランド物の真っ赤なデザイン。僕にどうしろっていうの、これ。
「昨日な、安物を履いているのが気になったから」
「きの……ッなの洗濯物見ればいつでもわかることじゃない!」
「脱がせる時に気付いたんだよ。Sサイズでも腰周りが余ってた」
 アスフェルは腰を屈めると、僕の唇に舐めるようなキスをした。
「これは伸縮性に富んでいてルックにもフィットすると思うから。……体、大丈夫?」
 背中を撫でながら労わってくれるのは今までと似たような感じだったけど、撫で方が、椿の花びらに積もった雪を触るのよりまだ慎重だ。なのにどこかしら遠慮がない。一歩垣根を踏み越えたよう。
 アスフェルは手放しで僕をかわいがりたがっている。それが痛いくらいに伝わる。
 手料理にしたかったけれど残業が入って、と申し訳なさそうに言うので時計を見たら、とっくに八時を過ぎていた。僕は何時間ぼうっと座り込んでいたんだろう。枕代わりにしていた僕の両手は真っ赤な跡が付いている。手の下に敷いていた一万円札は元からピン札だったみたいだ。
 置きっ放しのエコバッグ、鶏肉と牛乳が台所で生温くなっていた。何か作ろうとしてくれた? アスフェルが目で問うてきた。あんたの好きなものを、と言えなくて苦しくて咽喉が熱く塞がっていく。僕はごつんと机に突っ伏す。
「こんなの……おかしい……ッ」
「ルック?」
 罪悪感、だ。
 アスフェルが好きなのは本当に本当。アスフェルのためなら羞恥も怯懦も捨てられるって思ってるのも本当だ。けれど実際は外界の目に恐怖して、世間からの乖離を防ごうとして、アスフェルを好きな自分、アスフェルと心身繋がれた自分に罪の意識を覚えている。だからあくまでも二人の秘め事にしておきたい。建前上は普通の一般人でありたい。好奇の視線を向けられたくないし、それが自分じゃなくアスフェルにも向けられるなら尚更嫌だ。アスフェルは何も悪いことをしていないのに。
 そして僕は、アスフェルとの関係を隠したがることそのものにも罪悪感を持っていた。アスフェルは悪くない、と口では簡単に言いながら、世の中に顔向けできない気持ちでいるのは僕の罪だ。心のどこかでアスフェルのことを軽んじているのだ。本当に好きでそのため何でもできるなら隠そうとするはずがない。僕は隠してもいいと思う程度の愛情しか持っていないことになる。
 僕は……いなくなった方がいいんじゃないか。
 極論としてそこへ辿り着くのは単に時間の問題だった。いなくなれば悩まなくていい。アスフェルをこれ以上傷付けなくていい。昨日までの僕と、理由は異なれど、結局同じ結論に導かれるのだ。
 だけど今はとてもいなくなれそうになかった。だってアスフェルがこんなにも僕を好いてくれている。業の深さに苛まれる僕を、見通しているのかそうでないのか、何も言わずにただただ背中を優しく撫でてくれている。アスフェルが好きだ。離れたくない。アスフェルと一緒に生きられるなら羞恥も怯懦も全部捨ててくるって思ってるのは本当なんだ。
 僕は支離滅裂だった。しかもそこでアスフェルの腕に縋りつくという最も卑怯な選択をする駄目な男だった。アスフェルが僕を椅子から立たせる。包み込むように抱き締めてくれる。駄目だよ、アスフェル。そんなのしてもらう価値がないんだ。僕は、あんたに、罪悪感を覚えている。
「……ルックが悩んでいる時に、すべきでないとは分かっていても……」
 アスフェルの声が幾分沈んで耳をそよいだ。
「どうしても今聞いておきたいことがある。いいか?」
「……うん」
 僕の背中をさすりながら、アスフェルは苦々しく問うてくる。
「昼間一緒にいた男、軽薄そうな、あれは誰だ?」
「――誰、って、あんた、見てたの?」
「言い寄られていたんじゃないか? どう断ったんだ? ちゃんと断ってくれた、ん、だよね?」
「だから何で見たのって……あ、あのサイレン……」
「ルックと同じ制服だったろう? もしかして同じ学年なのか? あんなところで話し込むほど仲が良いのか? いつもあんな風に気安く触れさせてやっているのか? あの男とどういう関係なんだ?」
 アスフェルは僕の肩をがっしり掴んでは揺さぶった。稀に見る必死の形相だ。
 あまりにも真剣なその表情を見ていたら、僕はだんだん自分が馬鹿らしくなってきた。揺らされるたびに僕の鬱々とした思考が剥がされていくようだった。
「ただのクラスメイト」
「友達?」
「じゃないよ」
「じゃあなぜあんなに」
「お金貸したの」
「何で!」
「貸さなかったらどこまでも付いてきそうだったし」
「ストーカーじゃないか! ストーカー規制法により警察本部長等が警告、従わなければ公安委員会から禁止命令を行える。今すぐ手続きを」
「そんなんじゃないよ」
「いくら同級生でも庇う必要は」
「違うってば!」
 僕たちは額をくっ付けるようにして言い合っていた。だんだんアスフェルの目が穏やかに、悪ふざけの混ざった色に変化するのを見つめながら、僕は自然と口許を綻ばせていた。
 アスフェルは僕が浮気してるとかちっとも思っていないんだ。けど僕が他のヤツと仲良くすれば無条件に腹立たしい。相手を悪役に仕立て上げ、僕が自ら遠ざけてくれないかと願っている。
 子供っぽい嫉妬や不安がありありと伝わってきて、僕は自分より十八も年上の男性を一瞬かわいいと思ってしまった。
「違うよ……僕が悩んでたのは」
「聞いていいのか?」
「うん。……僕が、あんたに対して、不誠実なんじゃないかってこと」
 当事者のアスフェルに相談するのは卑怯なことだ。アスフェルにさんざん慰めてもらい、隠しておいていいよ、二人だけが知っていればいいから、などと甘ったるい許可をもらえば僕の心的負担はあっさり軽減される。
 でもそれは逃げているだけだ。罪悪感を感じすらしないようになるだけだ。
「いくら悩んでも解決法はない……んだよね。きっと。僕はそれでもあんたとひとつになりたいって望んだんだから」
 人を好きになることがすべて善いことであるとは決して言えない。同様に、人を好きになることで生まれる感情がすべて善いものであるとも決して言えない。僕は清濁どちらの自分も受け入れなければならないし、矛盾もジレンマも、それがアスフェルを愛するためなら感じて落ち込み続けるしかない。
「……元に、戻りたい?」
 アスフェルがぽつんと控えめに聞いた。
 元の関係、ただの里子と里親に戻ったならば、僕は楽になるんだろうか。――なるわけがない。戻りたくない。あんたを貶めるようなことになっても僕が世間に爪弾きされても、僕はいちばんにあんたを信じるって決めたんだ。
 僕は左右に首を振った。勢いよく激しく何度も振った。アスフェルが僕の頭を止めるように抱き締めてくれるまで僕は嫌だと訴えた。たとえ終点まで針の筵でもアスフェルを愛する道を選ぶ。アスフェルを傷つけることに、裏切ることになったとしても、僕はもうアスフェルを手放したくない。
 だけど、たまに苦しくなったら……あんたに泣き言を漏らしてもいい……?
 アスフェルにしがみ付く僕から何を読み取ったのか、アスフェルは僕の髪の毛を指に絡めては咽喉で笑った。僕が腕に力を込めると、くすくす声を上げて笑った。
「俺が、元には戻らせないよ。……今日も仕事にならなくてね。会議の時間は間違えるし場所も勘違いするし、パトカーに乗れば道を一本曲がり損ねて、赤信号を直進してから慌ててサイレンで誤魔化したり、こんなお前は面倒見て以来初めてだって上司に呆れられたくらいだよ。けれどそれさえ嬉しいんだ。ルックのせいで使い物にならない俺」
「それで残業?」
「も、あるけれど、訂正印だらけの書類と格闘しながら同僚に散々自慢してきた。世界一かわいい恋人ができたって」
「――言ったの!? 僕のこと!?」
 アスフェルは本当に僕と真逆だ。言いふらしてアスフェルに何の得があるんだろう。しかもどうせこいつのことだ、僕が男で十八歳差ってことまでべらべらしゃべったんだろう。
「……恥を知れ……!」
「明日来るって」
「誰が! どこに!」
「ここに。独身男性四人がぞろぞろ」
 こいつは馬鹿だ。どうしようもない馬鹿だ。そんなことして僕が喜ぶわけがないのに。……嘘。少しだけ嬉しい。僕のこと誇ってくれている、と、自惚れてもいいんだよね?
 僕がアスフェルを見つめただけで、アスフェルは見透かしたみたいに笑った。二人してしばらく沈黙を保ち、お互いの顔や指やその他目に付いた至るところへキスをした。唇同士は僕から欲した。触れ合った舌先から思いが繋がるような感覚。いつまでもいつまでもこうしていたい。
 テーブルに置かれたケーキの箱が、うっすら汗をかいていた。





 翌日も僕は学校を休んだ。微熱が出たのだ。暖房も付けず何時間も机に突っ伏していたせいで体が冷えた、のだと思う。その後アスフェルに好きなだけ弄ばれて体を休められなかったから、ではないと思う。アスフェルは泣きそうな顔で俺も休むとか言い出して朝から大変だったけど。
 熱は昼過ぎにすっと下がった。昨日買った分だけじゃ足りないから、僕はまたも近所のスーパーへ鶏肉やらを買い足しに行き、あの銀行の前を通って、通り過ぎてから引っ返してきて七千円だけ引き出した。
 そして夕方、ナッシュが家にやって来た。
「耳揃えて三千円。このとーり」
「僕がお釣りを渡すんじゃないの? っていうか何で僕の家を知ってるわけ?」
 シチューはことこと煮続けている。玄関先まで匂いがぷんと漂ってくる。
「ちゃんと返すまでの担保ってことで万札預けたんだろ。覚えてないのかよ?」
「……ふぅん」
「ルックがしんどそうだったからそうしたんだぜ? 絶対返すって約束したのにルックが今日も休んでるから、わざわざ担任に住所聞いてさ」
 ナッシュは僕の額にぺちんと手のひらをあてがった。また。
「もう熱はないんだな。明日は学校来れんのか? ルックひ弱そうだからなぁ、あんま根詰めて無茶するなよ」
 僕はまたしてもナッシュの手のひらを叩き落とした。アスフェルのことがどうとか以前に、僕はこいつに触れられるのが好きじゃない。こいつの飄々とした態度が嫌いだ。
 それともう一つ、あえて叩き落そうと思ったのは、廊下を歩いてくる一人分の足音が耳に入ったからだった。
「ただいま、ルック」
 足音はやっぱりアスフェルだった。ナッシュと僕のちょうど真ん中に割り込んで、僕の頭を自分の腕へ引き寄せた。僕の旋毛に鼻先を付けると、ただいま、と今度は吐息だけで繰り返す。防ぐ間もなくキスされる。
「――ッ何、するのさ! こんなとこで!」
「ただいまのキス」
「目の前に他人がいてそういうのって普通に考えておかしくない!?」
「おやこんなところに宇宙一かわいい俺の宝物がと思ったらとても我慢できなかった」
 ナッシュがぽかんと僕たちを見ている。その視線に僕はざぁっと血の気が引いていく思いを味わう。
 けれどアスフェルはわざとこういうことをやっているのだ。僕がアスフェルのことをどう紹介すればいいか悩むだろうと察してくれて、それなら詮索をしたくもなくなるように分かりやすく見せ付けてやろうとか突飛な発想をしたに違いない。
 僕は、アスフェルの服を固く握り締めた。そしてナッシュを正面から見た。
「じゃあまた、明日。学校で」
「……お……おう」
 ナッシュの笑みは引き攣っていた。僕も無表情にさえなれなかった。
 明日クラスでどういうことになるか、今は考えても仕方ない。侮蔑、差別、嘲笑されるなら、僕は甘んじてそれらを受けよう。気味悪がられるかもしれない。担任に呼び出されることだってなくはない。ナッシュが僕をどう扱い周りに何を吹聴しても、彼を責めることはできないんだ。
 ナッシュの背中が見えなくなるまで、僕は玄関に立っていた。アスフェルは僕の肩をさりげなく押さえてくれていた。僕の肩は、ほんのかすかに震えていた。
「客人は? 一緒じゃないの」
「後で来るって」
「ほんとに来るわけ?」
「ルックを説得したいって五月蝿いんだ。俺なんか止めておけってね」
「それ、あんたが言い返してよ」
「俺よりルックの方が先に啖呵を切ると思う。ルックはああいうタイプをこてんぱんに遣り込めたいだろうから」
 何でもないように話しながら、玄関のドアをそっと閉めた。そこで僕は限界だった。シチューのぐつぐつ煮える音を背景に、アスフェルが僕をぎゅっと全身で支えてくれる。僕はその胸に頭を埋める。
 今、アスフェルも罪悪感を覚えているなら……僕たちは互いに罪を舐め合って、それでもこの手を離すことなく進んでいきたい。恋愛がこの世で何よりも崇高なものじゃないって事実に打ちのめされながら、僕はあんたと、かけがえのない道を二人で歩いていきたいと思う。
 死神が二人を分かつまで。……分かたれても、また。







「死神ルックその後」のさらにその後、翌日でした。
死神シリーズはツンデレの語意に照らすとものすごく正しいツンデレルックじゃないですか!?
坊以外にはツン、坊にはデレで、一応3ルックのような自滅願望も持っているんだけど素直で子供。
私は完全にいつものルックじゃない別物だと割り切って書いています。
いやもうすんげー楽しかったー!

そして弊サイト初登場のナッシュ。
私は改変以外の小話で3の登場人物を使うことを避けているので、本当はルカ・ブライトにするつもりでした。
そんで銀行強盗に遭遇するという万事めちゃくちゃな筋書きになる予定でした(笑)
でもルカさまったら「金を寄越せ!」「明日返すと、この俺様がキサマに約束してやっているんだ! 同意できない豚は死ね!」「強盗にくれてやる金はない! 見逃して欲しくば跪いて俺様の足の裏を舐めろ!」とか言うんだもん(爆笑)
話にならないので、適当にくだけた口調で当たり障りない性格っぽいナッシュ(3でなく外伝の方の)に切り替えました。
ルカさまはいつか死神シリーズに出てきてほしいです。

どうでもいいですが坊の同僚はヤム・クー、シドニア、バルカスの3人で、上司はビクトールという設定です。
四人の名前を作中に出そうと努力しましたが、ルックがそんな雰囲気に持ち込ませてくれませんでした。
上司ビクトールと坊の面白コンビはいつか書いてみたいですね。
それこそ銀行強盗とか?
でもどうやら銀行強盗って警察がかっこよく収拾するような事態になりにくいみたいなんですよ、防犯設備や研修が充実してるから。
まぁその辺りはずっと前から書きたい死神続編をちゃんと書いてから考えたいと思います。

最後に、「恋人になる少し前もしくは少し後の坊ルク」というステキなキリリクをくださった方、どうもありがとうございました!
死神ですいません!(笑)

20100409