桃色の。





「…………もうほんの少しくらいは、俺のことも考えてみないか?」
甚だ切り出しにくそうに、誰の目から見ても明らかなくらい散々にうだうだと躊躇った後、アスフェルはそれでもついに発言した。
ようやく喋ったかと思えば何を。
ルックは口以上にものを言う呆れた表情を隠しもしない。
刺身こんにゃくにわさびをつけ過ぎたキキョウは、つんと鼻に来る刺激へ思わず涙しながら憂える英雄の鼻頭をじいっと見つめた。
アスフェルは相変わらず一点の曇りもなくすいと通った鼻梁で、しかしその上の眉間を盛大に顰めている。
キキョウは、また始まるのかもしれない本日四回目の夫婦喧嘩においてできるだけ邪魔にならぬよう、急いでこんにゃくを咀嚼した。
…ごちそうさまでした。
――は、不幸にも紙一重で間に合わず。
アスフェルがなおもルックへ言い募るのをうっかり両耳に入れてしまう。
「だから、例えば、俺たちがこの町に着いてから、つまり別の部屋を借りてから、もう十日にもなるだろう。それに、お互いの診療時間がずれるから仕方ないけれど、ほら、朝食もなかなか一緒に摂れないし。いや、急患が悪いわけではなくて。こういう地方の農村だと医者は足りないところが多いから」
「……で? 何が言いたいの?」
「だ、だから……」
アスフェルは言い淀む。
ちらとこちらへ目配せされても、キキョウだってせめてあと一週間くらいは二人とともに旅をしたいのだ。
そもそもいつでも共に来ていいと最初に告げてくれたのはアスフェルの方からだし、今さら前言を撤回させはしない。
キキョウは父親の整いきった容貌からふいと目を逸らす。
愛息子に拒まれたアスフェルは目に見えて落胆を示した。
「いや、だから、ルック。せめて……一緒にいる時くらい、少しは俺のことを考えてくれてもいいんじゃないかって……」
ばさり。
ルックは夕食の合間に読んでいた新聞を八人以上は座ることのできる広い食卓の端っこへ粗雑に放り投げる。
相当不機嫌だ。
ルックは特に読書を遮られることが嫌なのだ。
およそ二世紀ほど昔のこととはいえ、キキョウは食事中に何か他のことをするのを非常に行儀の悪い作法だと習ったものだが、どうやらルックは特例らしい。
キキョウはこの戦場から離脱するのを諦めた。
代わりに結構お気に入りである焼き魚をすべていただこうと骨を器用に箸で取り除き始める。
苛々苛々と指先でテーブルを叩きながら、ルックはさも鬱陶しそうにアスフェルを睨みつけた。
「要するに、あんたは僕に甘えて欲しいんでしょ。キキョウみたいに」
「俺はそこまで求めていないだろう」
ルックは剣呑な目つきでアスフェルへ暴言を投げる。
別にキキョウはアスフェルにベタ甘えしてるわけではない。
ルックにだって甘えているし、そもそも甘える相手を限定しろとルックに口酸っぱく言い含められているからこそ二人に遠慮なく甘えるのだ。
アスフェルは鬱憤を晴らすかのように肉じゃがのじゃがいもを箸で突き刺す。
刺すのも行儀が悪いと習ったが、いつも物凄く丁寧なアスフェルだから今は特例に違いない。
(…ちょっと……かわいそう?)
キキョウはルックを上目で見やる。
向かいに座るルックはキキョウの隣を烈火のごとく睨みつけている。
ルックははっとキキョウへ視線を移した。
キキョウの視線が伝わったようだ。
じゃあ試しに、とルックはこれもまた食事の合間に読んでいた宿屋据え置きの娯楽小説を手に取った。
「アスフェルっ、一緒にしろつめくさを摘みにいこうっ。たくさん摘んで、ふたりでお花の冠を作るの。アスフェルは王子様よりずっと格好いいからきっとすんごく似合うよね、どうかな? ねぇアスフェル、腕を絡めてもいい? ふふふっ、あたし、心の奥が幸せという名の宝石で光り輝いてるみたい。とってもきれいでうっとりしちゃう。あぁ、アスフェル、眩しすぎてあなたの煌くおめめがよく見えないわ。もっと顔を近づけて下さる?」
氷点。
完璧に、棒読みである。
アスフェルは箸を肉じゃがへ構えたまま絶句した。
ぞぞぞと鳥肌が一斉に立つ。
呆れたことにルックは、ここでね、とさらに続けて言った。
「ふたりのキスシーンなんだけど。『アスフェル、あたし、あなたのふっくらとかたどられた桜蕾のような唇へ、いつもめろめろに酔わされちゃうの。』さ、どうすんの?」
「…………参りました…………」
アスフェルはしょげきって食卓に突っ伏した。
ルックはぱたんと本を閉じ、何事もなかったように味噌汁を啜り始める。
とりあえず第一戦はルックに軍配が上がったらしい。
と、ちょっぴりルックが笑ったようだ。
口許がかすかながらほころんでいる。
キキョウはぱちくり瞬いた。
へこみきったアスフェルはというと、よく見ればこちらも若干楽しげだ。
どうやら気に病んだのは取り過ごしのようである。
キキョウは途端に嬉しくなってしまう。
「…ピンクいオーラ」
キキョウはぽつり、ふたりの間へ横たわる空気の質感を表現してみた。
なかなか高等に言い表せたのではなかろうか。
アスフェルは齧りかけた刺身こんにゃくを寸前で止める。
長考の後、ようやくキキョウに問うてきた。
「何だそれは」
「…ピンクいの。アスとルー、ぽやんって」
茫然自失のアスフェルに己の名言は聞き取れなかったか。
キキョウは再度教えてあげる。
お互いよくも毎日飽きずに喧嘩するか意地を張り合うかのアスフェルとルックであるが、結局それも愛情の裏返しなのだろう。
アスフェルが本当に嫌そうな顔をしていない。
キキョウは「…ね」と同意を促した。
目を細めてアスフェルは苦笑する。
「そうじゃなくてな、キキョウ」
「いいんじゃない」
まだどこか情けない顔のアスフェルを押しやるように、ルックはさらりとキキョウを肯定した。
「ピンクという名詞を独自の感性で形容詞化しただけでなく、オーラなんて聞き慣れない語彙まですこぶる適切な用途で使ったんだから」
「ルック、それ、一応曲がりなりにも褒めてるつもり?」
「そう聞こえない? キキョウと一緒にあんたも一から言語の勉強をし直すべきだね」
「ルックもね。口当たりの良い話し方」
「あんたしか聞く人いないでしょ」
ふたりはさも楽しそうに舌戦を開始する。
やっぱりふたりはピンクいオーラだ。
「…ピンクい」
ルックが褒めてくれた言い方を、キキョウは口の中で幾度も転がした。
ビー玉みたいに楽しい響きだ。
「黄色い」や「水色い」よりもうんとかわいらしい。
キキョウはふたりの意識が夕食から遠ざかっている隙に焼き魚のみでなく特製肉じゃがまで平らげた。
肉じゃがはルックとキキョウが協力して作った一品である。
甘味が柔らかく染み込んでいて、その出来たるや舌の肥えた宿屋の旦那が絶賛するくらいだ。
「…ごちそうさまでした」
キキョウはピンクく、ほんわかと微笑んだ。







シリアスな、しかも面白い、うまい話がなかなか書けなくて。
鬱憤晴らしの手遊びです。
(字を書けないストレスを字で発散できるくらい自分が字書きにはまっていることがむしろ驚異である昨今)
30分以内に書き上げようを目標にして1時間で仕上がりました、4ちゃんって偉大。
あ、坊様とルックは医者業で路銀を稼いでいるという設定でございます。

20060422