ルックは毛布に鼻から下をくるまれて、足はこたつに、手は鍋つかみに入っていた。
「……手袋は?」
「あっち」
あっち、とルックは声だけで手袋の所在を知らしめる。推測するに、クローゼットへ収納しているコートのポケットへ突っ込んであるのだろう。または同じくクローゼットへ仕舞いこんである厚手の軍手を示したものか。どちらにしろクローゼットは北西の最も寒い部屋にあるため取りに行くのが憚られ、手近なところで居間に隣接する台所から代用品を探してきた。と、いうところが妥当であろう。
アスフェルがこの家屋内における最低気温下の玄関先で古新聞をまとめていたことに対しては何の罪悪感も抱かないらしい。いや、若干なりとも抱いたからこそ、ついでに手袋持ってきて、とは敢えて言わなかったのかもしれない。にしても鍋つかみを防寒具に使っていいかは別問題だ。
居間はガス暖房が効いていて、こたつの電源も入っており、何というか、寒くないどころか明らかに空気が温かい。これでまだ寒がっているのだから大したものだ。丸まっちゃってかわいいなあと小さな幸せを噛み締めながら、アスフェルは、柔らかいルックの頭髪を痒みを掻くように軽く撫ぜた。ルックがびくんと首を竦める。より丸くなる。
「もっと温かくなる方法を試すためなら俺は協力を惜しまないけれど?」
つれないルックをどうにか惹きつけたくなった。出すのはルックが最も関心を持つ話題。腰を屈めてルックの瞳を覗きこみ、アスフェルはきわめて紳士的に問うてみる。得意の動作だ。地に近い、と言ってもいい。
ガスヒーターの燃焼音が滞るような音がした。室温が設定温度をいくらか上回ったためだ。ルックは首を竦めたまんま、隣に立っているアスフェルの口を眼球だけの動作で見上げた。いやに不審げだ。
「……いらない」
「曲解しているだろう。汗をかくほど熱くなることをしよう、とは言っていないよ」
「じゃあ汗をかかない程度で何かする気でしょ」
「疑り深いな」
「あんた相手にはまだ足りないね」
つんとルックはそっぽ向く。情事の隠語に慣れてきたのは顔に不似合いで愛らしいけれど、だからといってその元凶たるアスフェルが年がら年中盛っているように決めつけられるのは心外だ。いや、事実だが。いくら事実でもルックに己が特徴の一つとして決めつけられればほんの少しは胸も痛もう。
アスフェルは再びルックの髪へ手を挿した。
「それ、嫌」
ルックがぶるりと首を振る。
「俺の手はそんなに冷たいか?」
「あんたが今までどれだけ寒い場所で作業をしてくれてたかはよく分かったよ。ほんとに感謝してる。だから」
「凍った手で触れてくれるな、と」
ルックが良い意味しか持たない台詞を吐くときはたいてい後ろに拒絶が続く。本当は感謝だなんて爪の先ほども感じていないに違いない。ルックはその分料理を作り掃除機をかけて洗濯物を干したりしているのだから、アスフェルが二人の生活のために他のどんな家事をこなしたところで、ルックに言わせればそれはあくまで五分五分に過ぎないのだ。ルックが一方的に感謝すべき出来事ではない。
「……あんたも曲解してる」
アスフェルの苦笑を的確に見抜き、ルックが小さく指摘してきた。
「何を?」
「僕がリップサービスでこんなこと言ったと思ってるでしょ」
「言っただろう」
こんなこと、とは感謝云々の発言だ。
「四割はね」
「四?」
「そ、四割。もうちょっとで半分に到達する高比率」
ルックが右手につけている鍋つかみは親指の部分とそれ以外の部分、先は二股にしかわかれていない。それで四割と言ったらしい。ルックは親指を手の内側に折ってみせ、もって数字の四を示そうとした。残りの指が実際何本立っているかは窺えないが、たとえ一本だったとしても多少は感謝の気持ちがあるようだ。
鍋つかみの先はいつ焦げたやらほんのり茶色くなっていて、どうしてかきゅんとアスフェルの胸を疼かせてくれる要素があった。客観的にはルックが手を温めるために手近なもので不精をしているだけなのだけれど、鍋つかみを使ってまで暖を取ろうとするルックはアスフェルの網膜に健気と映る。惚れた欲目だ。
アスフェルはルックの横へ座った。
「分かった。俺が室内用手袋をどうにかしよう」
「どうにかって、あんたにしては不確かな約束の仕方だね」
「作るか買うかは毛糸を見て決めるから」
「あんたこのクソ忙しい時期にまさかのんびり編み物する気?」
「実は、得意じゃないけれど」
「……って」
白状した途端、ルックは睫毛をぱしぱしと大きく瞬かす。
「あんたにもできないことがあるんだ。チーズだけだと思ってた」
「グレミオの担当分野はたいてい俺の出る幕じゃないだろう? 強いて得意になる必要もなかったから」
「でもあんた料理はかなり得意じゃない」
「シチュー以外はね」
「あ。ほんとだ。――あっ」
表面上は仲睦まじい会話を往復させていたものの、横へ座った冷たいアスフェルがこたつに入ろうとするのをルックが阻止し、アスフェルはそれを阻み返して、さりげない泥沼牽制の末、できるだけこたつへ外の空気を入れないよう、隙間ができないように、ルックが必死で押さえつけるこたつ布団をアスフェルが慎重に切り開く、という、はなはだ馬鹿らしい陣取りゲームの応酬を水面下に繰り広げていたのであった。
ついにアスフェルが膝までこたつの中に入ったためルックが思わず声を漏らす。アスフェルは毛布でくるまれたルックに上半身を寄り添わせつつ、にっと、勝利の笑みを口許へ浮かべた。
「俺が不得意なりに手袋を編もうとしているんだよ。何か感想は?」
ルックは視線を床へと逸らす。こたつとカーペットの間にこたつの熱が逃げてしまう穴はないかと探すよう。アスフェルの臀部とルックとの間に小さな隙間を見つけ、ルックは珍しく、自分からアスフェルへ身を近づけた。
「たまにはほんとに言うけど、あんたがちゃんと自力で作って、それがあったかかったら言うけど」
ルックからくっついてくれるなんて、裏にどんな理由があろうとただ純粋に嬉しいことだ。ところがアスフェルは素直に歓喜を表現できなかった。指摘すればルックが離れてしまうから。そこで、無理に別の言葉を引き出そうとしてしまう。
「まず俺の愛情溢れる提案に対して何か感想が欲しいところだな」
返るのがじゃれた毒舌でも構わなかった。アスフェルが予想していなかったのは、冷静に否定されることだ。
「……別に、いらない」
「え?」
「だから別に無理して作らなくていいって」
「そんな鍋つかみに頼るくらい手が寒いんだろう?」
「自分で買うからいらない」
「俺が作るものはそんなに不安か? 確かにうまくはないけれど、いざとなったら俺が買っ」
「僕が明日自分で買ってくる方が手っ取り早いじゃない」
「そういうことじゃなくてな」
「僕は今寒いの!」
言い放ってルックはすぐさま、しまった、という顔をした。アスフェルもすぐに気がついた。
ルックは待っていたのだ。アスフェルが半ば冗談で口にしたこと、すなわち、今よりもっと温かくなる方法の実践を。それが性交でないことも分かっていて、だけど口先ではそう突っぱねるしかできなくて、だからルックは、待っていた。
凍えた足を温泉へ浸したような、あるいは壊れかけのオルゴールが震える一音を奏でたような。アスフェルは思わず息を吸い込んだ。愛しい、と強烈に思い知ったのだ。
共に暮らし始めて一年半ともうちょっと。アスフェルはルックのことをすべて知り尽くした気になっていた。意外と寡黙な面も子供っぽい面も、優しきを恥じる優しさ、弱きに怯える弱さ、観念的なルックらしさから具体的な言動に至るまで、ルックのことを最も多く汲み取れるのは己こそだと自惚れていた。
しかし、ルックは変化し続ける。
アスフェルとの関係に自信を持ち始めてきたのも一端だ。良く言えば頑丈になった。アスフェルにだけ、それもそうとは分からないくらいかすかに甘えるようにもなった。
アスフェルに影響されるのみならず、ルックは自身のたゆまぬ向上心によって常に変化を遂げているのだ。
なのにアスフェルは驕りの上に胡坐を掻く状態で、すっかり慢心していたのである。手ひどい失態ではないか。内省し、アスフェルは眼前のルックへ視点を戻す。ルックが探るような目つきをしている。
「……今言ったこと、あんまり気にしないでくれる? 売り言葉に買い言葉ってやつだし」
囁かれた。アスフェルがつまらない悔恨を膨らませていることに気づいていたのだ。今日の夕刊までしっかり目を通し終えてしまったくせに、新聞でも読もうかな、とルックは独り呟いて、アスフェルが古紙回収に出すため全部片づけたばかりだったのを思い出すと代わりにこたつのスイッチ部分をまさぐった。上半身がすいと離れる。二人の間に隙間風が忍び込む。
アスフェルは眉を顰めた。頭がぐらついた。ああくそかわいい、と柄にもない言葉遣いがぽろりと出るほどぐらついている。思うより先に体が動く。
ルックから毛布をまさに剥ぎ取って自分の肩へばさりと回した。ルックの真後ろへ位置をずらす。右足をルックのさらに右側へ差し込んで、こたつ布団を両脇からも掻き集めて、鍋つかみを取り、代わりに手を取って、肩の毛布をアスフェルの背からルックの腹まで巻き込んだ。目の前にあるルックの冷たい右耳へ熱くなっている自頬をあてがう。強引につないだ二人の両手はルックの胸で交差させた。
ルックが背後の冷たい体に身震いをする。金茶の髪はほのかに甘いシャンプーの香り。
「さっきより温かくなったよ、アスフェル、とお世辞でも嘘でも一言くれたら、今なら本気で泣くかもしれない」
「残念ながらあんた全身冷たすぎ。ていうかほんっとに泣き虫だよね。男のくせに。信じらんない」
「身体的でない性差は生育地域の環境によって文化的かつ不当に養われ、濫用すれば個性剥奪の元凶とな」
「ジェンダー議論はどうでもいいけどどっかに隙間があるんじゃない?」
「もっと強く?」
「抱きつけ、って言ってないでしょ」
「人間の体の凹凸は、どうして互いにぴったり合わさるようにできているんだろうな」
「あんたが馬鹿力込めるから」
腕へぎっちりとくるんだルックは、産まれたての卵のように、ごくほんのりと温かい。アスフェルはルックに体温を分け与えられているのだ。いつもと逆だ。
「……ルック」
どこまでルックの意図だろう。もうすぐ三十五度八分に回復する特大懐炉が背中に一つ欲しかったのか、ぞっとするほど手まで冷たくなったアスフェルを早く温めたかったのか。または全部どうでもよくて、どんな形であれルックなりに、二人の時間を無為に過ごしたかったのかもしれない。
それとも、もしかしたらそれらを望んだのはすべてアスフェルの方だけであり、察したルックが辛抱強くアスフェルのペースに巻き込まれようと努力していた可能性も捨て去ることはできないのである。ならば須くアスフェルの意図通りになったということだ。
俺は贅沢者だ。アスフェルは思った。
「ルック。いつまでこうして、一緒に、いられるだろうな……」
至福の時間が終わる瞬間へ詮無き思いを泳がせる。未来に対して一抹の悲観を見出すところなど実にルックの影響を受けている。
そしてルックは近年富みに、久遠に対して、実に積極的になった。
「僕が寝るまで。――あんたの努力次第だね」
そっけなく返ってきたのがいつか来る永眠の暗喩であるとは、容易に察せることだった。