君の望むままに





聖なる恐怖。

あんたを愚かだと哂うことなど……僕にはできない。






久しぶりに宿泊する旅館の和室。寝具が畳の上に二組、隙間を空けずに敷いてある。白いシーツに柔らかい毛布、枕元に添えられた客室浴衣には温泉らしく湯気を表すマークが紺で描かれ、袖を通すと糊の効いた清潔な肌触りが気持ち良い。
障子の向こうに浮かび上がる三日月の薄光、部屋の内側をほのかに明らめる行燈の赤光。床の間に杜若が濃紫色の花弁を開く。
アスフェルは布団で四肢を無造作に投げ出して横たわっていた。その右側へ、とろん、眠たげな瞳のルックが、ソウルイーターの棲む右腕を自らの頭へそっとあてがう。
ずっしりした、重いわけではなくとも奇妙に重厚な存在感を右腕に味わえば、原因はルックが両手を腕枕へ絡めてくる愛しい仕草。今宵はいつになく甘えたいらしい、と、彼のこっそり放つ合図を仔細漏らさず受信する。
だから、アスフェルは空いた左手で幾度も繰り返しルックを撫でた。
さらさら滑る眩い髪から白皙に血管が透けそうなこめかみ、つうと指先を這わせた先は青白く眇められている瞼。親指で長い睫毛の縁を辿ってみれば、ルックはくすぐったそうに目を細めて忍び笑う。
朱ののぼりやすい頬、やや線の細る肉付き浅い顎、それからやっと、三日月より薄く月光に冴える唇へ。
人差し指の第一関節を折り曲げて、出っ張った外側をそっと口許へ近づけてみる。
――ちゅ、と。
節の当たる瞬間に、ルックの丹唇が尖った。
ほのかに湿った感触の、吸いついた後もじわりと残る暖かみ、思わず胸に満ち溢れる情をそのまま顔へ現出させてしまうのも相手が唯一の想い人なればやむを得まい。
「……サービス?」
耳元まで赤らむのを何とか誤魔化そうとルックの内心を汲み取って問えば、ルックはくすりと吐息で暴いた。
「あんたが……疲れてるみたいだから」
「俺が? ルックより体力はあるつもりだけれど」
「そういうのじゃなくて。――あんたは、たまに、失くした平凡な時間を模索したがる」
突きつけられるはひどく辛辣な言の葉だ。しかしルックの囁くそれは、ひどく慈愛に覆われて響く。
普通の貴族のような人生。または普通の庶民のような生活。さらには普通の男女が夫婦として感じるような幸いを――愛しいルックに。
アスフェルはこの期に及んでまだ捨てきれないのかもしれない。自覚はひとつもなかったが、聡いルックが指摘するのだから多少なりともそう窺える言動があったのだろう。
膝のあたりでめくれているルックの浴衣を直してやりつつそれはいつのことかと思い返すと、気まずいのか情けないのかよく分からない笑みが勝手に浮かぶのを禁じえない。多分アスフェルは喜んでいるのだ。ルックの鋭い観察眼がきちんとアスフェルへ向けられていることに。
しかし愉悦にしろにんまりする表情をルックはどう読み解いたろう。少なくともルックの言葉を否定したようには見えなかったはずだ。気づいて急ぎ頬の筋肉を引き締める。アスフェルはゆっくり三度、左右に首を振って言う。
「そんなことはない。今が、一番いいよ」
少なくとも己が心の可視範囲においてはこれが本当の気持ちなのだ。できるだけ率直な思いがルックへ伝わるよう、アスフェルは努めて熱心にルックの瞳を覗き込む。
疑りぶかいルックはじっとアスフェルの瞳を見つめ返し、でも、とか、だけど、とか言いたそうな顔をした。
「……なら、いい」
だが、なぜかルックは反論しなかった。
足元へ蹴られていた毛布をたくし上げてふたりの腹へ被せかけ、そのついでに、さもついでにそうなったと主張せんばかりの自然さを装って、ルックは不自然なくらいアスフェルへ体を密着させる。
肩の付け根へルックの鼻先が当たる。頬へはルックの額、生え際の辺りがぴったり触れる。
ルックの体温、ルックの匂い。
すぐそばにある、ルックの存在。
「アスフェル……苦しいんだけど」
「え? ――ああ、ごめん」
アスフェルは、何かまともな思考を巡らす前にルックをきつく抱きしめていた。
右腕は頭部をしっかり包み左で胸から腰を捕まえる、確かにルックは息苦しいだろう。無意識に力を強めていたらしく、アスフェルは慌てて両手を離そうとし、――やはりできずに一層ルックを抱き込んだ。
「ちょっと、いい加減息苦しいって」
「ルック……」
「もっとサービスしろっていうの? 今日はいやに贅沢、我侭だね」
それは彼なりに羞恥を紛らす術だったのだろう。
離したくないと無様に懇願するより愛する名前をひとこと呼ぶや、ルックは苦く呟きながらもアスフェルの背中へ両手を回してくれたのだ。
「しばらく、このままでもいいかな。……ルック」
「あんたがどうしてもって哀訴するなら、そう無下にもできないだろうね」
溶けてしまいそうな心地さえする。
抱擁するたび感じる腕の中の繊細すぎる身体、若干冷たい手足の先や鼻の先、ぎこちなく応えてくれる優しすぎる彼の心根。
ルックは、火にくべた氷よりも儚く消えそうでいて、岩壁の狭間に咲く花よりも遥かに強靭だ。手に囲えばすぐ消えそうなのに手を離しても独り立ち上がる強い意志。どちらも同じくらい愛し、だがアスフェルはそのどちらをも恐ろしくさえ思う。
ルックがアスフェルの元へ留まってくれるのは所謂天女の羽衣を失くしたからだけかもしれない。
いつか、生きるのに充分な証を見つけ出せば、ルックはすぐさま天へ還ってしまう気がする。
「苦しいってば。……どうしたの?」
アスフェルはルックを闇雲なまでにかき抱いた。
離れたくなかった。
おかしくなりそうだった。
好きだ、と口にも出てこなかった。

――それくらい深く、ルックを愛しているから。





まるで盾と矛とを鬻ぐ者。
そんなに崇めて、穢したがって。
だけどどれもこれもあんたが門扉へ並べ立てた柵にすぎない。

僕には奥までよく見える。
あんたの偽りなき本心。


だから僕は、あんたの望むままに与えよう。

体も心もプライドさえも、あんたのためならいくらでも。
僕には惜しいものなどない。


全身全霊で拘束している、愛しいあんたひとりを除いて。






闇夜の訪れを告げる細い月が西方へ赤らんでいた。
肉欲で貶めるほかに天女を繋ぎ止める祝詞などこの世へ具現し得ないように思われた。

なのにルックは、ひとつもアスフェルを妨げなかった。







夕凪大地1周年記念でございます。
どうして素直にゲロ甘を書かないんだと問われれば、1年間でひねくれたのは坊だけじゃないと答えてみるしかなさそうです。
なかなか甘くならない切なげ坊ルクがお好みな方に、または今後甘ぁくなりそうな初々しさを感じさせる坊ルクがお好きな方に、つまりは弊サイトへご来訪下さるすべての方に。
ありがとうございます、これからもよろしくお願いいたします!!

20060810