蕗の薹





 アスフェルが黒い瞳を歪める。
 視線の先にはぱさぱさになった松の大木、しなびた四肢を投げ出す様だ。冬の寒波を乗り切れなかったのだろう。立ち枯れである。
 植物の命は動物のように分かりやすくない。だが生気の失せた幹や枝など、見ていてひゅうと洞のような音が鳴る。老いさらばえた臭いも消える。
 それが死なのだ。
 ルックは、彼にしてはひどく抽象的に、この現象を五感以外の何かを介して捉えている。いわゆる直感だ。これに頼ると正直ろくなことがない。どうしようもなく正しいことが多いからだ。同時に嫌な気分にさせられることも少なくはない。
(……アスフェル)
 薄墨色に目を伏せたアスフェルが、ほんの一瞬、眉間へ太く皺を寄せた。
 ――黙祷。
(あんたは、そんな草木の一つでも、悲しいんだね)
 何度も同じ光景を見てもっと凄まじい現実も経た。なのに尚且つ、目前へ映る一つ一つの出来事をすべて疎かにせず受け止める。いちいち泣いていちいち喜び、毎日何がしかの表情を絶やすことがない。
 アスフェルのそれを、不器用な生き方だと哀れみ見るのはルックだけだろうか。
 そして、アスフェルは決して不器用な歩みを止めない。止まらない。アスフェルはもう松を残して先へと進む。
(そういうとこ、身勝手だと思うんだけど)
 なぜだか喉が詰まったようで、いつもならぽんぽん出てくる口舌は今に限って麻痺したらしい。
 あんな目がかつてのルックへもきちんと向けられていたのだろうか。あんなにも悲しそうな黒輝の眼、飽きることなく双肩へ増やす命の重み。ルックは扁桃腺が腫れたような苛立ちを飲み、アスフェルの背中をひたすら目で追った。
(……あれ?)
 すると今度は肩の力がわずかに抜ける。がらりと彼の空気が変わる。豊かな情感と変化球とで観世水のごとき模様を魅せるアスフェルだ。歩幅を広めに取って七歩目、歩き続けるアスフェルを追い越し、ようやく正面から新たな顔を伺ってみた。
 黒輝の中は突き抜けるような群青の、慈愛、か。
 深海まで潜り降りたらきっとこんな色だろう。生命の根源が湧き起こる場所は、プランクトンに濁りながらもごく鮮やかな紺である。
 先より遠く彼の茫洋たる視線を辿れば羊の放牧が目に付いた。小さい子羊を内側にしてのどかに草を食む群れだ。誘導するのは羊飼いの一家らしい。棒切れを持って子供が周囲を跳ね回り、追いかける犬、番をする父親、乳飲み子を抱えて夫の横で笑う母親、時折静かに羊たちが鳴いている。
(感動、してるのかな。それとも寂しい?)
 もし不幸が生老病死の形を取って視認できるものならば、幸いは、不幸でないという反定立で幻視するしか手立てがあるまい。しかし日常生活に何の滞りもない今の状態を果たしてあの家族は幸せであると見なすだろうか。
 そして逆に言えば、アスフェルは今あの幸いが見えるのだから、不幸、なのか。
 こういう考え方はよくない。答えがなく、終わりもなく、不安が増大するだけだ。単に穏やかな詩的情景をアスフェルは彼特有の些細なことまでいちいち気に留める感性でもってそっと愛でているだけだ。……きっと。おそらく。多分。
 ルックはアスフェルの手を引いた。
「……ルック?」
「別に。何でもないけど、別に、ただ、うん、何でもないんだけど」
(僕は一体、何がしたいんだ)
 無意識に手が動いたのだ。こんなことするつもりじゃなかった。されどこの手はなかなか離しがたく、偶然ぶつかっただけだなどと陳腐な言い訳も叶わない。咄嗟に掴んだアスフェルの小指はルックの手中でぴくりとも動かず、まるでルックを試しさえするかのようで、ルックはあまりの気まずさに唇をがりっと噛みしめてしまう。
 引き留めたかった。振り向いて欲しかった。どれも少し違う。もっと簡潔で意味のない理由だ。それがうまく説明できないのだ。
 とにかくこれだけは自明。この小さすぎる接触を、できることならこのままずっと、――離したく、ない。
「いいよ、ルック。何も弁解しなくていい」
 梅の花咲く春の色。
 ゆるやかに左右へ首を振ったアスフェルは、強張るルックの右手をやにわにぐっと握り返した。五指ともしっかり絡め取られる。神のひそむ右手の甲へアスフェルの温かい指先、丁寧に切り揃えられた爪がきつく当たって、ルックのよりずっと太い指は第二関節と付け根の間へ痛いくらいに食い込んだ。
 そよ風が吹く。アスフェルの髪を掻き乱す。目に入るのか、アスフェルの瞼が閉ざされてしまう。黒い縁取り。光の消失。
 暗い木立に阻まれた闇。
 ルックは空いた左手を伸ばした。踵を上げて、握られた腕に体重をかけて、邪魔な前髪を思い切り奥へ押し上げる。つるんと黒髪の滑る感触は自分の猫毛とずいぶん違って光沢あふれる天鵝絨だ。癖ひとつない。
 アスフェルがゆっくり目を開けた。
「どうした? 何かしてくれるなら、しやすいように屈もうか?」
 額を剥き出しにされたアスフェルは、薔薇の綻ぶように笑った。瞳を彩るあでやかな華が最後に真白くルックを包む。太陽よりも強い光だ。呼応して手の握られる力も強くなる。
(そんなに掴まれたら……握り返せないじゃない)
 もちろん、そうでなかったとしても握り返してやったりはしない。それ以上のこともしてなんかやらない。だがそんな行為、状況をちらっと想像してみたのもまた事実で、喜色が顔へ出ないよう、ルックは痛みのせいにしてつんと唇を尖らせた。
「じゃあ、屈んで、目を閉じて」
「これくらい?」
「もっと。僕が見下ろせるくらい。あといい加減この手離して」
「後半は断る」
「……仕方ないね」
 綺麗な瞳が閉ざされるのを若干、いや相当、名残惜しく感じつつ、ルックはアスフェルの額を見つめた。
(残念だけど)
 あんたが夢想するようなことはしてあげない。肉体の浅い接触で満足なんかさせてあげない。もっと翻弄して、突き放して、もどかしい気持ちと焦がれる想いでいてもたってもいられないような、
(――僕と、同じように)
 再度アスフェルの額を掻きあげ、ルックは間近へ鼻先を寄せた。
 ぱちん。
「ル、ック?」
「はい。おしまい」
 先ほど魔物を倒した時に角か牙の破片でも飛んできたのだろう、こめかみの上、かすかに皮膚が裂けている。ルックは風を纏わせた指先で瘡蓋を軽く叩いてやって、傷をきれいになぞり取ったのだ。触れる必要はもちろんないから何か過大に期待しているアスフェルの意表を突いてやったまで。
 ぽかん、とアスフェルが目を丸くする。握力の弱まった隙にひらりとそこから抜け出してやる。呆然と一拍を置いた後アスフェルは、黒い瞳を若葉の色に和らげて、苦笑に滲む木瓜の蕾をいくつも浮かべて微笑んだ。
 ルックの右手にアスフェルの指が薄らと赤く跡形を残す。まるで、まだ彼の手中に絡め取られているようだ。拳に引っかかる彼の感触が見えない絆の片鱗だなんて、ちょっとでも馬鹿らしい符合を当てたがる自分にこっそり腹が立つ。
「あんまり好きじゃないけど、たまにはカルシウムも摂取しなきゃね」
 羊の群れを指差してルックはアスフェルへ背を向けた。
「ラム肉は?」
 喉の奥で笑い続けるアスフェルが額を擦りつつ身を起こす。
「あんた、あれが食用に見えるわけ? 最低」
「ルックはいつも動物にばかり優しすぎる。ああ、それと子供にも、女性にも、老人、某師匠」
「拗ねてんの?」
「そう思うなら多少なりとも俺へ罪悪感があるんだろう」
 どきりとするのは気のせいだ。ルックは後ろを振り向きもせず、右手で羽虫を追い払うように否定する。
「ないね。一切」
 遠くを走り回っていた子供がこちらへ大きく手を振ってきた。ルックの動作に応じてのものか。ルックは背中に腕を組み、子供へ視線を送ってやりつつ群れへ向かって足を進める。
 渋々付いてくるアスフェルが大きな声で聞かせるぼやきだ。
「傍にいられるだけで満足、とは俺の常に念ずるところだけれど……参ったな」
「ほら、さっさと行くよ。アスフェル」
「名前を呼んでくれるようになっただけ進歩したことにしても良いものか…。否、まだまだ俺の愛情表現は足りないというルックなりのせっつきだったらそれはそれで、……ねえ、ルック」
「あの家族に余計なこと言ったら三日間接触禁止」
「せめて三時間に」
「何、三ヶ月?」
「……横暴だ」
 ルックは顔を俯けた。だいぶ伸びてきた髪はそれでもようやく肩へ届いたくらいで、頬から顎へ鬱陶しげに落ちてくる。後ろでまだ不平を漏らしてやまないアスフェルを呆れた笑みで受け入れてしまい、だけれどそんな、よりによって張本人へ自分の弱点をむざむざ晒したくはない。頭が地に付くくらいまでルックは体を折り曲げる。
 左右へ緩む口の端っこ、無理矢理窄め、風の吐息を繰り出した。
 足元へ芽吹くふきのとうが彼の瞳を映したように春の訪れを告げていた。






献上先:Logicさま→



いつも楽しく構って下さるLogicの岬さまへお贈りいたします、お誕生日プレゼントでございますv
…本当に遅くなってしまって申し訳ありませんでした…。
ぼつんがですね、ちょっとでもかっこよく見えるよう相当努力したんですがこのあたりで限界が訪れまして、いよいよ真性のヘタレです。
どうぞ今後とも愛想を尽かさずにいてやって下さいませ。

20070311