■■10:06a.m.■■
アスフェルが戻ると、ルックはもう宿屋の調理場を借りていた。
肩まで伸びた髪を後ろでゆるく一つに結わえて、宿屋の板前に着せられたらしい割烹着はすっきりした白妙。
萌黄色のスリッパから覗く素足がそれより皎潔な雪色だ。
フリルのエプロンも似合うけどこういう田舎の娘さん風もなかなか、とひとしきりにやけて、本人に見咎められぬようアスフェルはさっと表情を作り込んだ。
ルックはキキョウと二人、午後の出立に備えて保存食をこしらえている。
隣で懸命にルックを手伝うキキョウもお揃いの割烹着だ。
もちろん、後ろ姿のたおやかなルックと違って、キキョウはそもそも体格からして剣術に通ずる男のものであるため可愛くも何ともない。
強いて言うならニューリーフ学園の給食係か。
結構器用なキキョウはせっせと挽き肉を練りながら時々大鍋をおたまで混ぜている。
「砂糖が先。粒子の大きいのから入れて」
「…りゅ……？」
「さしすせそ。砂糖、塩、酢、醤油、その他の順。分子の大きいものから加えないと、後から入れても染み込まないの」
「…ルー、凄い」
「隣、焦がさない」
キキョウは慌てて鍋をかき回す。
ルックは料理に関してそれなりのこだわりがあるため、食えれば何でもいいキキョウとは作り方が本質的に異なるらしい。
しょっちゅうキキョウの手元を窺ってはあれこれ指図し、キキョウも嬉々として教えを乞うている。
どこか料理教室にも見える微笑ましさだ。
さながら母子の仲睦まじき語らいに、アスフェルは父親役として参入すべきかをかなりの間躊躇した。
「鮭」
ふと振り返ったルックがアスフェルを視野に収めるなり一言。
ねぎらう辞ひとつなくぞんざいに手のひらを突き出す。
ちなみに現在、季節は梅が咲き誇り沈丁花の濃密に香る早春だ。
なのに買えなかったかもしれないという選択肢はアスフェルに与えられていないらしい。
「その期待に全力を以って応えるのが俺だけどね」
「何ぶつぶつ言ってんの」
いいから早くと手を広げて睨まれる。
アスフェルは三つもある大袋から翡翠姫ご所望の紅鮭一尾を手渡した。
一昨日から滞在しているこの町で、今日は朝食を摂るなり買出しに走らされたアスフェルである。
町中の店を回り、しばらく付いてくるつもりらしいキキョウを合わせて三人分、食料だの道具類などを買い揃えてきた。
おかえりあなた、ちゅっ、とまでは言わないが、もう少しくらいルックの言動に愛想というものを望んでしまうのは我侭だろうか。
アスフェルは耳朶のダイヤを弄りながら微苦笑する。
「…アス、おかえり」
ほてほてと寄ってきたキキョウがアスフェルに抱きついた。
やはりこちらはルックと大層異なり、たった一時間足らずの再会でさえ尻尾を振らんばかりの喜びようだ。
ルックが「鍋！」と一喝するも、キキョウは気にする素振りもない。
ルックはそれ以上怒らないで鍋を代わりにかき混ぜた。
キキョウの行為は、例えるなら握手に近い感覚だ。
実年齢はそろそろ二百に達しようかというキキョウにもこの程ようやく精神的成長期が訪れたらしい。
近頃キキョウはことさら性的でない接触を求めるようになった。
いわゆるスキンシップである。
「ただいま」
アスフェルはキキョウを抱き返す。
二人は身長こそほとんど変わらねど、キキョウが猫背なので並ぶと頭一つ分くらい差が開く。
身を縮めるキキョウはくすぐったそうに笑い声を上げた。
「…ルーに、かりんとうの作り方習った」
「そうか、良かったな」
「…うん」
…食べてね、と消え入りそうな小声がアスフェルの胸に埋められた鼻先からかすかに届く。
アスフェルはたまらずその頭を撫でた。
出会った頃と比べてキキョウはだいぶ前向きになった。
自身の作った料理を食わせようとするなんて、当初からすると進歩著しい。
昔のキキョウはどれほど刹那的ペシミストだったのか。
そうならざるを得なかったキキョウの過去を思い、アスフェルはそのたび亡き親友にも思いを馳せる。
親友の蝕まれた心を再び大地へと解き放ったのはこの淫乱純粋天然児、すなわちキキョウに相違ない。
キキョウを通してアスフェルとテッドにもうひとつ繋がりのできたことをアスフェルは純粋に喜んでいる。
よしよしと撫でて、アスフェルはそろそろキキョウを引き剥がそうとした。
「さあ、キキョウ」
まずは両肩をやんわり掴む。
ルックはキキョウに甘いから、ちょっとやそっとのことではキキョウに腹を立てない。
然れども、キキョウのスキンシップに多少過剰さの見られることが問題なのだ。
ルックは極端に肌の触れ合いを嫌うため、ルックからすると恋人の自分よりもキキョウの方がアスフェルへ纏わりついていることになる。
もちろん、本人が人前で触られたがらないのだから当然の帰結だ。
ルックだってそれは重々承知している。
しかしそうと分かっていてもやっぱり多少は苛付いたり羨んだりするものらしい。
アスフェルでなければ到底手に負えない天邪鬼っぷりである。
「キキョウ、そろそろ僕は鮭に取り掛かりたいんだけど」
案の定、尖った声音が耳を打つ。
ルックに自覚のないのがまた厄介だ。
暢気なキキョウはなかなかアスフェルから離れようとせず、しきりにアスフェルの胸元でくんくん鼻を鳴らしている。
アスフェルはへばりつくキキョウを無理矢理引っぺがした。
「キキョウ、ほら、ルー母様のところへ行っておいで」
キキョウは不思議な顔をしている。
「…ねぇ、アス」
「いいから早くルックを手伝え」
そろそろルックの気配がやばい。
アスフェルはキキョウを強引に調理場へ押し遣る。
為されるまま素直に調理場へ戻るキキョウは、それでもなおアスフェルの腕にしがみつきながらこう言った。
「…アス、ルーの匂いがする」
風の荒れる予感がした。
俺は悪くない……。
呟いて、アスフェルは静かなる湖の札を取り出した。
■■5:48a.m.■■
ルックは羽毛の上へ座り込んだ。
窓の外には暁光が差す。
もう朝だ。
ようやく眠らせたキキョウを見やり、眠りの風の効き目を確かめる。
すうすうと規則正しい寝息が聞こえる。
「……やっと寝たな」
同じようにキキョウを窺っていたアスフェルが、ほっと安堵の息を漏らした。
シングルベッドが二つとソファが一つ、三人で泊まるにはいささか手狭な部屋である。
キキョウは右の寝台を占領して大人しく眠っており、ルックはアスフェルとともに他方の寝台へ腰掛けていた。
キキョウは最近紋章の見せる悪夢にうなされる。
悪夢自体はずっと昔から飽くほど見ていたのに、今まではさして怖くもなかったらしい。
生きることに未練のなかったキキョウだから、灰色の世界にも疎ましい記憶にも、心掻き乱されることなどなかったのだろう。
それが近来やっと、生の素晴らしさを朧げながら理解するようになった。
すると途端に夢は恐怖の対象となる。
キキョウは濁流の木の葉のごとく翻弄される。
特に夢魔はアスフェルの形を取って表れることが多いらしい。
キキョウにとっては友であり父であり、何者にも替えられない存在が、夢ではキキョウを思う様罵る。
侮蔑、嘲笑、お前なんかいらないと通告されて――そして、アスフェルの体は秩序の鉄槌によりぐしゃぐしゃに潰れ灰燼に帰すのだという。
キキョウには耐え難いだろう。
恐ろしい夢に襲われたキキョウはいつも悲鳴とともに飛び起きる。
そして激しく恐慌をきたし、夜の明けるまでずっと肩を震わせ泣きじゃくる。
眠るのが怖い。
アスフェルを失いたくない。
まだアスフェルに依拠することでしか己を擁立できないキキョウは、地盤の崩れるような思いを味わっているのだ。
「今はまだ……仕方ないだろうな」
アスフェルが目を瞑りながら天井を仰ぐ。
キキョウはまだ、性欲の介入しない優しさに包まれることを知っただけで、誰かを愛することを知ったわけではない。
だから、恐怖に打ち克つことは、まだできない。
キキョウの目尻に残る水跡をルックは苦い思いで凝視した。
おそらくルックの紋章がキキョウへ影響を及ぼしているのだ。
真なる紋章が三つも揃い、それがこぞって秩序属性なれば、否が応でも紋章同士は共鳴し合う。
神の望む未来を神の子らに知らしめようとする。
特に、真なる風の紋章は未来に逆らう運命を持つためなおさらだ。
キキョウはルックといる時に限ってよりおぞましい悪夢を見る。
「僕は、平気だけど」
ルックはそっとアスフェルへ凭れかかった。
そう、ルックも共鳴するのは同じ。
夢を見るのも同じ。
昨晩キキョウが叫ぶのと同じ時、ルックも夢中でやめろと叫んだ。
けれどルックは隣にアスフェルのぬくもりがあるだけで平気なのだ。
いつか制してみせるから、と。
悪夢へ、針路づけられた未来へ、凛と対抗し得る力がルックの内には確かに息づく。
アスフェルはどこまで勘づいているものか、ルックを労わるように撫でてきた。
「キキョウもいつか、ルックみたいなひとを見つけられるといいな」
「僕みたいな？」
「傍にいて欲しい、守りたい、何かを与えたいと思う相手。……俺だって夢を見ないわけじゃない。ルックがいるから怖くないんだ」
アスフェルは言の葉にそっと笑みを乗せた。
先に、言われた。
しばし憂えるも、どうせルックの方から言ってなんてやらないのは自明だ。
ならばせいぜいこいつを甘やかしてやるしかルックには示せるものがない。
ルックはアスフェルの胸元に額を押しつけた。
アスフェルが背中へ長い腕を回してくる。
そのままぽすんと、ふたりしてベッドへ倒れ込む。
「眠りの風、よく効いてる？」
アスフェルが冗談めかすように問うてきた。
ルックはアスフェルへ身を任せて応える。
「僕を誰だと思ってるの？」
「あと二時間くらいは保って欲しいな」
「……余裕だよ」
アスフェルが口づけを落とす。
ルックの瞼に、頬に、唇に。
鎖骨の上をちりと吸われ、ルックは思わず喉を鳴らした。
「……アスフェル」
呼んだ名前は薄明に冴える。
応じる声がルックの耳朶にほてりを灯す。
アスフェルの肌は、ただひたすら熱かった。
■■7:23p.m.■■
「美味い」
アスフェルがかりんとうの出来栄えを評す。
不安げに眼差しを揺らしていたキキョウはほよんと笑顔をのぼらせる。
「…ルー、アスがおいしいって」
小気味好いステップを踏んで、キキョウは食器を洗うルックに飛びついた。
ルックの手からマグカップがつるんと滑り落ちる。
「っキキョウ！！」
すんでのところで風を操り、一つしかないカップを掬い止めて、ルックはキキョウを叱り飛ばした。
野宿にはお誂え向きの星空。
焚き火の煙が白く天へ靄を引く。
食器を洗うために汲んできたバケツの水鏡へ映ずるはちらちら瞬く数多の星団。
じゃれるキキョウと苛立つルックも水面に浮かぶ。
ルックがふっと視線を向けるのが伝わったか、バケツの水越しに二人と世界を眺めていたらしいアスフェルはそろそろ親子喧嘩を仲裁すべく腰を上げた。
「…ごめんなさい」
キキョウはしょぼくれて謝る。
ルックは一瞬ひどく申し訳なさそうな顔をする。
「割れなかったし、もういいよ」
かりんとう上手く作れて良かったね、がどうしても言ってやれない。
今も言い逃したという悔恨でルックは眉をわずか顰める。
アスフェルがとびきり丁寧な笑みを象った。
「ふたりが頑張ってくれたから今までで一番美味しいよ。ありがとう、ルック、キキョウ」
父親らしい取り成しだ。
ルックがほんのり眦をゆるめる。
アスフェルがそっとルックの肩を抱く。
ふたりの間へ割り込むようにキキョウは身を捻った。
「…あのね」
キキョウはふたりの手をそれぞれ掴み、左右を交互に見ながら訥々と話す。
「…流れ星、願い事が叶うんだって。消えるまでに三回お願い言えたら」
「あんな一瞬で？ かなり難しいんじゃない？」
「簡潔な単語ならできないこともないだろう」
そのままアスフェルとルックはふたりして、彗星が出現してから消えるまでおよそ何秒か、春に彗星があまり見られないのは何故か、古来彗星は凶事の前兆であった――だのと、キキョウにとって難しすぎる議題を楽しみ始める。
キキョウはふたりの腕を抱えこんでくっつけたり離したりして遊んだ。
「そういえば何であんた静かなる湖の札なんて持ってるのさ」
「特注で作らせたんだ。普通は優しさの雫しか作れないらしいけれど」
「もしかしてこないだ拾った流水の封印球使ったわけ？ ……勿体ない。あんたいい加減水か流水宿しなよ」
ふたりの話題は今朝の騒ぎへ移行する。
ぼんやり小耳に挟みつつ、キキョウはふたりに引っついたまま願いを考えてみることにする。
短く唱えられるもので、叶ったら嬉しいものがいい。
キキョウ自身には誰か、何かに求めることなどほとんどなく、己自身に望むこともまったくない。
強いて願うならたったひとつ。
敬愛するふたりの望みが叶うことだけだ。
ではふたりのためにキキョウができることといえば、ふたりを手伝えるようにもっと強くなることくらいか。
そしてできるだけ一緒にいられればキキョウが手伝えることも増えるかもしれない。
「…一緒」
そこまでの思考をきれいに端折って、キキョウはただ一言願いを述べた。
アスフェルは悟りきった顔でキキョウの頭に軽く触れる。
「じゃあキキョウ、早く流れ星を探せた方が明日の朝ご飯を決めようか。見つけたら三回言うんだぞ」
「…うん」
「でもな、キキョウ。もし三回言えなくても、箒星が降らなくても。キキョウが望めば、願いは何でも叶うんだよ」
「………うん」
キキョウはアスフェルと空を見上げる。
春先の月は柔らかい円光を描く。
ルックがてきぱき野宿の支度を整えて、首がつるよ、と敷いた毛布を指差した。
さりげない優しさだ。
ふわりと表情をほころばせたアスフェルがルックごと体を倒す。
キキョウはその上に乗っかって戯れる。
二人まとめて散々ルックに叱られて、その後ようやく三人、川の字を描くように寝転んだ。
ルックがぽつりと名案だ。
「一人一回、同時に言えば、計三回になるんじゃない？」
流星が、濃紺の空をすいと切り裂いた。
