春虫





「……春、だね」
「春だな」
 丘に二人して腰を下ろす。
 吹き付ける風は温くなった。空は青さいや増し、雲は薄く千切れて伸びて、隙間から麗らかな日差しをゆらゆら注いでいる。
 ルックは水筒を取り出した。宿で淹れてもらってきた緑茶はほどよく冷めている。でもコップに注げばまだ立ち上る湯気が、頼りなく風に吹かれ棚引いた。そこに春めいた匂いが混ざる。
 しばらく湯気を吸い込んでいると、隣から暢気な声がした。
「茶菓子は?」
「あんた、このタイミングで花より団子?」
「ならいい。寝る」
 ちょっと呆れただけなのに、アスフェルは言い様本当に寝転がってしまった。今日のアスフェル、何だか変だ。ルックは余計呆気に取られる。
 丘は一面短い草に覆われていて、どれも芽吹いたばかりだから柔らかい。晴天続きで土の表面も乾いているし、自分はしないが寝転がるにはまさにうってつけだろう。ルックは無意識に目を細めている。大の字になったアスフェルがうーんと伸びをし、気持ち良さそうに目を閉じるまで見守っている。
 こういう時のアスフェルは信じられないくらい無防備だ。無防備な表情を平気で晒す。ひとがどれだけ戸惑わされるか知りもしないで。自分にはそんな風に信頼してもらう価値がないとか、場違いに重いことを考えてみたり。または純粋に居たたまれなかったり。アスフェルはきっと感じたこともないんだろう。
「あんたも飲む?」
「いい」
「……あっそ」
 ルックはなるべく音がしないように緑茶を啜った。
 会話がない。むしろ発話が罪悪であるような雰囲気だ。アスフェルが寛いでいるのだから、できるだけ静かに、場を乱さぬよう。
(――って、何で僕が気を使わなくちゃいけないわけ?)
 使ってるというか逆で、本当はルックがもっとちやほやしてほしいのだろう。春らしく浮かれた雰囲気の中、当たり障りない会話に嬉々としてのめり込みたい。意味もなく構い倒してほしい。今日は、今は、そういう気分。
(……変なのは僕だ……)
 花を探して、視線を丘の向こうへ投げた。黄色い塊は菜の花だろうか。たんぽぽにしては背が高い。他に目立つ色は見つからず、あの一帯だけ誰かが植えたろうと思われる。町からわざわざここまで花壇を拵えに来る、その心理は共感に値するものだ。小一時間の散歩にちょうど良い距離だし、何より日当たりが抜群に良い。育て甲斐があるだろう。
 その花壇からか、ぶんと虫が飛んできた。手の甲で払うとアスフェルの方へ逃げてしまう。虫がいるのも春が来た証拠。見送るルックは妙に浮き立った心地を持て余し、自らが解せなくなる一方である。
「ん……」
 呻き声に視線を戻す。
 アスフェルの頬へぽつんと赤い粒が乗っていた。払い落とそうと指を差し出せど寸前に飛び去る。おっとりとした飛び方だ。紅点が青空に紛れてしまうまで目で追って、アスフェルの頬を親指の腹でぐいぐい拭ってやる。
「ルック?」
「てんとう虫」
「赤いの? 黒いの?」
「赤」
 アスフェルが一瞬薄目を開けた。咄嗟にルックは両手を突いて覗き込む。咄嗟のことでなぜそうしたかは分からない。だがなぜを問うより黒い瞳の再び隠れてしまうのが先だったから、屈みかけた不自然な体勢のまま硬直せざるを得なかった。あわあわと手繰りかけた会話の糸口は瞬時に霧散。咽喉に絡まった声を音立てず飲む。
 不本意だ。すごく空回りしている気分ではないか。
「――ル、ルックっ?」
「てんとう虫」
「何色?」
「……肌色」
 ちょん、と軽く頬へ唇を付けてやったら、アスフェルは目を驚きの色に見開いた。思わずにやりとしてしまう。慌てて澄ました顔を作る。起こして悪かったな、とは後からほんのちょこっと脳裏を掠めただけだ。
 アスフェルはしばらく目を閉じなかった。お互い探るように見交わした。アスフェルはおもむろに寝返りを打ち、ルックの腰へ擦り寄るように腕を回す。膝枕をねだるつもりだろう。
 ごにょごにょ囁く口許が嬉しそうに綻んでいて、これもいいな、とルックはしばらく見下ろした。
(たまには僕が甘やかす方、っていうのも)
 要望を叶え、アスフェルの髪にくっ付いている砂粒を落としてやる。耳にもぱらぱら砂粒と、薄茶色に乾いた昨冬の名残の枯れ芝生。ダイヤの耳飾りは陽光を受けてきらめいている。
 眩しがらないよう閉ざされた瞼に手を翳してやりながら、代わりにルックが空を仰いだ。けぶるような春の匂いは空から下りてくるのだろうか。それとも下から?
 アスフェルを見下ろす。上体を屈める。何気なくその耳に舌先で触れる。
「――やっぱり変だ。今日の僕」
 抵抗をほとんど感じない自分に、ルックは苦々しく呟いた。







ルックの献身愛を書きたかったはずでした。
献身を辞書で引いてみろって感じですね…出直してきます…。

20100210