旅路において困るのは、例えばモンスターとの戦闘直後、集中豪雨に見舞われた時などである。
地図によると次の町まであと二日はかかりそうで、前の町へ戻るにはこれまで歩いてきたのと同じ三日半以上はかかる。アスフェルと僕はびしょ濡れになって近くの洞窟へ逃げ込んだ。
洞窟は切り立った岩壁の下を茂み沿いにしばらく走って見つけたものだ。ちらほら実を付けるキイチゴと数本のブナに囲まれた入り口は僕の身長ほどの半円状、深さは三メートルもない。風向きによっては中まで雨が吹き込んでこよう。だがそのおかげで熊やその他動物、モンスターがねぐらにしている様子はなかった。
僕たちは荷物を放り出して巨岩を抉ったような洞窟に座った。アスフェルは髪からぼたぼた雫を垂らしながらバンダナを取り、胴着の裾を絞り出す。僕も倣って重たくなっている法衣の袖を絞ってみた。しかしあっという間に尻の下へ大きな水溜まりができるだけ。埒が明かない。
「……どうしよっか」
「雨宿りだな」
僕は転移をほのめかす。が、アスフェルはやっぱりさらりと拒んだ。
前にも何度か似たような状況に遭って、アスフェルはどの時も転移を使わせてくれなかったから、僕はあらかじめ答えを知りつつ問うたのだ。アスフェルは真の紋章へ頼るのを嫌がっている。
だけど僕は今回に限ってさらに言い募ることにした。
「でもほら、荷物も濡れてるし。この分じゃタオルも毛布も使い物にならないでしょ」
「風邪を引くような季節でもないだろう」
「引くよ。ずぶ濡れなんだから」
「なら脱ごう」
「……えっ」
墓穴を掘った。咄嗟に僕は両腕をがっちり交差させている。目敏いアスフェルがそれを見咎め、ルック、と、いつもより潜めた声を出してきた。失敗だ。僕は無意識に座ったまんま後退る。
「脱いで」
「やだ」
「なら俺が脱がす」
「や、やめッ」
洞窟はどう逃げてもすぐ追い詰められてしまうほど狭い。お椀のように丸く曲がっている奥の壁へ背中が当たるまで数秒もかからなかった。行き止まりだ。アスフェルが僕へ覆い被さるように腕を突いてなお逃げ場を絶ち、法衣の紐へ手を掛ける。直垂を剥がれる。ぐいとお腹を捲り上げられるや、僕は固く目を閉じた。
「……ルック」
怒ってる声。しかも相当。
「もう痛くないもん」
「さっきの戦闘か。この打撲傷にみみず脹れ」
「ちょっと当て身を食らっただけ」
「……ちょっと? これが?」
声がどんどんどす黒くなる。僕は薄目も開けられない。肩を竦めて顔ごとアスフェルから逸らす。
雨に降られる前、僕らはダンジョンボスと戦っていた。いつも通り僕が風の魔法で敵の体力をあらかた削り、止めをアスフェルが刺したのだったが、アスフェルが懐へ飛び込んだ刹那、土に埋まった烏賊のようなモンスターの丸太ほどもある太い触手が僕の腹部を鞭打っていた。それだけだ。
「大したことないじゃない。あんたの怪我に比べれば」
僕はアスフェルを睨み付け、アスフェルの右足首に爪先でちょんと触れてやる。アスフェルが足に痛烈な一撃を食らっていたのを知っている。それで捻挫したらしいことも。
アスフェルは無表情で触れられた痛みをやり過ごした。けれど奥歯を噛み締めたのが僕には分かる。どうしよう。ものすごい罪悪感だ。そんなにも痛がるなんて。この洞窟まで走るのも辛かったろう。あんたの方がずっと大したことあるんじゃないか、言ってくれればすぐ癒しの風で治したのに……どうせ言わないだろうけど。僕の魔力があと癒しの風一回分しか残ってないから、いざという時のため、僕のためにと、アスフェルは温存させとくつもりだ。
「……気付かなかった……」
僕のお腹を見つめ続けるアスフェルが、ぽつんと小さく呟いた。
「――ごめん」
それは僕の台詞。だけど先に言われてしまい、しかも掠れかかった悲痛な嘆きに思わず謝らされている。この僕が。
僕への攻撃を見過ごした自分に深く失望し、僕がそれを見られたくないから風呂も部屋も別々になる元の町の宿へ転移で戻りたがっていることを、アスフェルは悔やんで、僕以上に傷付いている。僕のせいでアスフェルはこんな顔をしてるのだ。がっかりした、というのがいちばんふさわしい表情。誰にってもちろん、僕を大切にできなかったアスフェル自身に対してだ。僕はちっとも落ち込んでほしくなんかないのに。
「あんたがそうやってうじうじするのがやだったの」
正確には、アスフェルをそうさせる僕自身が、だ。
「……俺は、大切なものは、鎧と魔方陣でごてごてに防御した上で鳥かごに入れて最前線で俺の隣へ飾っておきたいタイプかもしれない」
「何それ。最悪」
「そうだな」
アスフェルがどこまで真意か読めない冗談を言うものだから、僕は思わず笑ってしまった。一緒に笑ったアスフェルがこつんとおでこを触れ合わせてくる。あ、だけど脱がす手は止めないんだ。服というより水分の塊になったみたいな法衣はべしゃっと僕らの横に音を立てて落とされた。濡れた体が、髪が、背後の岩からじわじわ漏れるひんやりした冷気にぞっとする。
僕は僕がいるせいでアスフェルに怪我を負わせていると知っている。それでもアスフェルは僕を守って傷付くし、僕は僕でアスフェルから矛先を逸らすためなら敵に隙をわざと見せることを厭わない。
これを、不毛、というのでは。僕は寒さにか身震いをした。
「……僕を脱がせてどうするのさ……」
「おいで。俺を慰めたいなら」
アスフェルはにやりと笑みを湛える。すぐそれだ。
「それ聞きようによってはすごい性欲至上、理性放棄、女性蔑視なんだけど」
「聞きようによってはルックこそが俺にとって何にも勝るという事実だよ。それにルックは女じゃない」
「女みたいなことさせたがるくせに?」
「――そういうことなら、けっこう前から覚悟はしている。役割の交替」
「え、交替ってちょっ……待って……ソレは無理、絶対無理、僕何もできないしまずそういうの自体したくないし」
「ルックの筆下ろしが俺、か」
「想像でうっとりしないでよ馬鹿! 変態!」
いつものように気付けば言葉で戯れ合いながら、僕たちはお互いの傷を撫で合っていた。僕のお腹は撫でられるたびずきんと疼いて、それが何でだか弱まってゆく。まるでアスフェルの手のひらが癒しの風になったみたいだ。
そしてしつこく撫で返し、撫でられる痛みに時折眉を顰めつつ、僕は、アスフェルが本当は何をしてもらいたいのかぼんやり思い巡らしていた。つまりアスフェルは、アスフェルが傷付くのを見たくないなら僕がアスフェルを庇ってみせろと言いたいんだろうか。今の僕みたいな自分を捨て身にするやり方ではなく? じゃあどうやって。
「冷えてきたな」
アスフェルが僕の露出した肩や腕を摩擦しつつ囁いた。濡れっ放しで拭く物もなく、木屑が湿気って焚き火もロクに起こせないから、僕の上半身はどんどん冷えてしまっている。アスフェルも同様だ。濡れた服を着たままだからずっと水中に浸っているようなものだろう。
もしかしたら、アスフェルにもまだ答えが見出せていないのかもしれない。アスフェルも僕も空回りしてる。二人で同じことをして同じところに傷を負い、けどまだうまく役割分担ができずにいるのだ。歯車が噛み合ってない。
「……やっぱ交替は無理だよね」
アスフェルは僕も知らないうちに僕のズボンを脱がそうとしていた手を止めて、きょとんと不可解そうな顔をした。何の話か咄嗟に分からなかったらしい。ちょっとかわいいかも。絶対言わないけど。
「ルックが蒸し返すのか、それを」
「うん、今思ったんだけど、僕があんたに、その、そういうことをしたとして、ね、でもあんたがやるみたいにうまくはいかないんじゃないかって。だって隙間ができそうじゃない?」
「す、き、ま……」
「僕のだときっと噛み合わないよ。あんたのが僕に入ってこなきゃ、カタチ的な面で」
「形ってルック、――っ」
口許を手で覆ってしまったアスフェルがいきなり上体を翻すように立ち上がった。僕から離れ、入り口近くの壁へ右肩を斜めに預け、濡れた黒髪をやけくそになって掻き毟る。訳が分からない。すーはー、大きく深呼吸する音が弱まった雨音に混ざって聞こえる。
「危なかった……この年で、触るどころか直接見てもいないのに……」
「どしたの?」
「――男の沽券だ」
「はぁ?」
洞窟に緩やかな陽光が差した。雨が止んだのだ。アスフェルの背中は端整なシルエットになって、僕はなぜだかまともに見つめていられなくなる。これが男の沽券? なのだろうか? アスフェルがたまに俗世間すぎる言動をすると僕はむず痒くなってしまう。白く輝くテーブルクロスにそっと香炉を乗せる気分だ。灰が落ちないか、クロスが焦げないかと焦る反面、お香の先端がじりじり揺らめいて燃え尽きるまで微動だにせず見つめてしまう。
「俺は悟った。今。ルック」
アスフェルは僕に背を向けて言った。
「俺はルックに傷が付くことを怖れてばかりいたけれど、傷付いたルックもそれを隠そうとするルックも俺は、全部、ひっくるめて好きなんだ」
「……あっそ」
「俺はその怪我ごとルックを愛するよ」
「はいはい」
僕は聞き流すふりをした。その代わりに腰を上げ、けっこう大切なことを言ったのにと拗ねるアスフェルの背へ歩み寄る。足が冷たい。一歩踏むたび濡れたブーツから水音がする。
「じゃあ僕は――痛みごとあんたを攫ってあげる」
悪いけど今回は強制的に真なる紋章を使わせてもらう。じゃないとあんた、そんな冷え切った体でまた無茶をする気でしょ。僕だって一応……あんたが大事なんだよ、アスフェル。
風の魔法を練り上げた手で、僕はアスフェルの冷たい腰を温めるように抱き締めた。