眼前で繰り広げられる言い争いを、アスフェルとルックは目を丸くして見るしかなかった。
「…約束、したのに……っ!」
「私にも優先せざるを得ない仕事がある」
「…仕事、有給、とった!」
「キキョウに合わせて私も取った。だがどうしても私が出向かねば収まらぬ事態になってしまった」
パステルピンクのパーカーにぼんぼんのついた白いかぎ編みニット帽、クロップドパンツから素足を出してブランド物のスニーカーという、どこからどう見ても十代後半にしか見えない若者が、実は今年三十二になるアスフェルの弟分キキョウである。水色の瞳に涙を溜めて悔しさに歯を噛み締めている。対するは自称キキョウの恋人であるトロイ、弱冠三十七歳にして某都銀役員に昇格したエリート中のエリートだ。かっちりしたダブルのスーツで髪も後方に撫で付けている。
共通するのはどちらも博物館には似つかわしくないということくらい。ましてや二人が当初の予定通り腕を組んで歩こうものなら尚更だ。アスフェルは自身を棚に上げて同性愛は目立つなあと場違いなことを考えた。そして目立つゆえ腕を組まずともこうして衆目を浴びている。キキョウの兄貴分としては責任を持ってここから二人を連れ出すべきか。いや、巻き込まれたのはこちらなのだ。キキョウとのデートをトロイがドタキャンしたせいでアスフェルとルックは朝っぱらからキキョウのお守りをする羽目になったのである。二人とも大学の講義を抜け出してきている。
「キキョウたちでも喧嘩するんだ……」
「キキョウが声を荒げるなんて、俺も二十二年間で初めて見たな……」
妙に感嘆しているルックへ、アスフェルも呆然と呟いた。キキョウが誰かに対して不満を抱くことができるとは思わなかった。ましてやそれを尋ねられもしないうちから相手へ言うことができるとは。だが成長を目の当たりにした喜びはそれが痴話喧嘩であるという事実を前にどうも精彩を欠いてしまう。だってまるで、トロイのおかげでキキョウが開花したようではないか。
「まぁでも、約束すっぽかすばかりか自分が来るまでずっとここで待ってろなんて無茶言われちゃね……」
「しかも、いつ着くか分からない、だからな……かれこれ五時間か」
「付き合わされた僕らもいい迷惑だよ」
ぼそぼそ愚痴るアスフェルらをよそに、トロイは落ち着き払っている。それがまた腹立たしかろう、キキョウがぐしっと鼻水を啜ると涙声で訴えた。
「…前も同じことゆった」
「前というのは先月の暮れか? 同じではないが似通っていたか。それも道理、今は決算期なのだから」
「…きょねんも……その前も……」
「年度末は忙しいのだ。今回私が有給を取ったのも本来なら役職にふさわしくない軽率な行動だったが半ば強引に」
「…ひっく」
ついにぼろりと涙を零し、キキョウは手の甲で乱暴に擦る。憤りが頂点に達したようだ。けれど吃音の気があるキキョウは言いたいことがあってもスムーズに発話できず、あるいは言いたいことが頭の中でまとまらないため言葉として外へ出すことができず、こうして涙が先に出る。
トロイが駄々っ子へ言い聞かせるように粛々と続ける弁明も、きっとキキョウには虚しく響くのみだろう。
「私はキキョウを蔑ろにするつもりはない。そして同様に、己の職務をまっとうしないつもりもない」
「…――い……」
「この埋め合わせは後日必ず約束しよう」
多分そういうことではない。アスフェルは憐憫の眼差しを送った。キキョウが言いたいのは、次は絶対こんなことしないで、とかその辺りの約束だ。だがトロイは次も同じことをすると名言している。キキョウが欲しいのは確実性、トロイが譲れないのも同じ。それにトロイは気付いていない。むしろ譲れないことをキキョウに納得させようとしている。
濡れた頬のキキョウはぎっと、怒りに満ちた強い視線で言い放った。
「トロイさんなんか! 大、大、だいっっ、キライ!!」
アスフェルとルックの中では何となく、キキョウが絶交宣言とともに脱兎の勢いで逃げ出せばそれを追って連れ戻すのはアスフェル、留まって融通の利かないトロイに懇々と説教を垂れるのはルックと自然に役割が決まっていた。アスフェルはルックの肩へ一度だけ軽く手を置いてから走り出す。博物館の有料展示ゾーン手前にある休憩スペースから正面ホール、チケット売り場を乗り越えるようにして出口、階段。一気に街中へ飛び出るとキキョウはめちゃくちゃな方角へ全力疾走し、アスフェルも必死で追いかける。
キキョウは滅多に発揮されることこそなけれども運動神経が抜群に良く、本気で走れば百メートル十秒台をマークする。だからアスフェルがキキョウを捕まえたのは市街地で鬼ごっこを十分以上も続けた後のことだった。ぜぇぜぇと荒く息を吐き、アスフェルはキキョウのパーカーのフードをがっしり掴む。
「……戻るぞ……キキョウ、っはぁ……」
「…やだぁぁあああうわあぁぁぁんん」
「キキョウ、彼を嫌いなままで良いのか?」
「…いくない……でもキライぃぃええええんっ……アスぅ……」
駄目だと思いつつ、こうして甘えてもらうと嬉しい。アスフェルを兄として頼ってくれているのだから。しかし三十路を過ぎた男をいつまでも甘やかしてやるわけにもいかない。弟の自立を応援せねば。
泣き喚くキキョウを引き摺って、アスフェルは博物館の脇にある芝生の広場へと向かった。別に打ち合わせたわけではないが、何となくルックがトロイを連れて出てきているような気がしたのだ。果たしてそこに二人は険悪な表情で互いに背中を向け合っていて、どうやら口論しているらしい。
「僕はね、あんたにキキョウを最優先する覚悟がないんなら付き合う資格もないって言ってんの」
「あの子の親気取りは止めて貰おう」
「あんたこそキキョウの人生を背負い切れ――あ、アスフェル」
ルックが気付いて顔を上げた。トロイを視認したキキョウが再び脱走しようと暴れ出し、アスフェルは必死でその首根っこを捕まえる。戸外に出た途端寒風に鼻先を赤くしているルックがゆったり歩み寄ってきて、キキョウ、と静かに窘めた。
「もう別れちゃいなよ、あんなの」
「…やだ」
「あんたが躊躇いなく叫ぶくらい、あれを嫌いになったんでしょ」
「…うん」
「だが私はキキョウを愛している」
「…うれしい……」
「ちょっとあんたは黙ってて!」
「黙れない。キキョウの血縁でもないただの学生へ偉そうに指示される筋合いはない」
「はっ、立場が危うくなればオトナの権力振りかざすわけ、そんなだからあんたにキキョウは勿体ないの! いい加減オトナぶるなら慰謝料積んで身を引くぐらいして見せなよね!」
アスフェルは頭を抱えたくなった。ルックがトロイと舌戦を再開、キキョウはトロイのたった一言でぽやんと惚気た顔をしている。
ものすごく複雑な心境である。キキョウの自立、キキョウの健全な成長を願う気持ちを押しのけて、キキョウがいつまでもアスフェルの庇護なしで羽ばたくことの叶わない雛であればと、ずっと温め続けてあげられるのにと、過保護な欲望が頭をもたげるのを止められない。傷つく前に守ってやりたい。アスフェルの考え得るすべての安全策をキキョウへ施してやりたい。それがキキョウにとって幸せでないことは重々分かっているけれど。
パーカーの首根っこをアスフェルに掴まれたまま、キキョウは舌戦をただ眺めていた。当事者なのに蚊帳の外へ弾かれている。こんな哀れな状態を見れば、やっぱりずっと囲ってやりたい、そう思わずにはいられなかった。特にこうやってキキョウ本人を参入させないトロイのような男には絶対にキキョウを任せたくない。
けれど、キキョウが、彼を選んだのだ。
アスフェルはキキョウの頭を撫でた。
「キキョウはどうしたい」
「…いっつも、おいてかれる。やだ」
「彼が嫌いか?」
「…うん」
「本当に?」
「…キライ」
嫌いと言いながらキキョウはふらふらとトロイの元へ歩み寄った。アスフェルの手は弟の羽根を握り潰し損ねたみたいにパーカーを握っていた形のまま残された。キキョウが、自ら歩んでゆく。切なさと寂しさがない交ぜになり、アスフェルは手元から離れてゆく背を、ただ目を細めて見守ることしかできなかった。
「…トロイさん……」
トロイの肩へキキョウがこてんと額を当てる。
「キキョウ」
「…トロイさんなんか……キライ……キライだもん……。くるしい、かなしいもん……」
キキョウは脇腹へしがみ付く。トロイの腕は行き場に悩んでどこにも触れず迷っている。トロイを容赦なく糾弾していたルックがあっさりその役割を放棄し、キキョウ、と先よりもっと静かな口調で窘めた。
「それ、好きだからじゃないの。苦しいのも悲しいのも」
「…おなかも、痛い」
「お腹じゃなくて胸じゃないの」
「…このへん」
「そこには肋骨と肺と心臓と、――心、があるよ」
キキョウが着ているパーカーの紐が垂れている辺りを丸く指差して、彼にしては珍しくルックは自分から視線を外した。トロイとキキョウが互いに相手の胸を見る。それから二人で顔を見合わせ、何か言おうと口を動かしては譲り合って噤み合った。
ルックがさっと踵を返す。
これ以上関わるつもりはないらしい。何とも潔いルックの態度だ。アスフェルはただ瞠目し、眼球から薄皮の剥がれた心地を味わった。透明だと思っていた皮は濁っていて、急に視野が明るくなった感覚だ。キキョウは守られたがっていない。背中を押してほしがっている。ルックはそのことをアスフェルよりよく分かっている。
アスフェルとルックは見つめ合う二人を後にした。
「馬鹿馬鹿しくなっちゃった」
今さら大学へは戻れずに、博物館から地下鉄の駅までレンガの敷かれた並木道を辿っている。しばらく無言でぶらぶら散歩していたのだが、ルックが突然、大きな溜息を吐き出した。
「馬鹿馬鹿しいって、キキョウの痴話喧嘩へ絡んだことが?」
「それもあるけど。……心配したから」
さっきまでは青々と見えていた空も、西からだんだん青い色素が抜けていく。抜けた分は東方へ寄り集まって濃さを増し、それまで見えなかった一番星がかすかに浮かび上がってくる。西は代わりに昼間の太陽の縁の色合いに似てきた。ルックの着ているピーコートと同じ色。そのせいだ、ルックの輪郭がはっきり見えないような気になる。
「同性愛なんて、身分違いの愛なんて、どうせうまくいくはずがないって思ってた。キキョウはきっとあのエリートに捨てられて泣いて、人を信じられなくなる、って。……けど」
ルックは足元へ目を落とし、レンガの間から生えた草を避けている。動植物とキキョウには惜しみない情けを注ぐルックだ。ふいと肩越しに博物館の方角へ、慈しみに満ちた眼差しを向ける。残してきたキキョウを思いやっているのだろう。
「けど……惹かれ合うものは仕方ないね」
アスフェルは思わず歩を止めた。ルックもほとんど同じタイミングで立ち止まる。眼差しをすうとアスフェルの目へ移行させ、アスフェルの戸惑いを見抜いたものか、ルックは薄い口唇をほんの僅かに和らげた。夕空へ溶けていきそうだ。
「相手にどうしようもなく惹かれてるなら……妥協して折り合いつけて、相手に合わそうと努力するしかないのかな。自分曲げてでも……一緒にいたいから……」
ルックがひたむきにアスフェルを見つめる。白い頬が夕陽にやんわり染められる。誰のことを話しているのか、だんだん分からなくなってくる。
ルックは不安を振り切るようにぶんと首を振って仰向いた。金茶の髪がさらりと夕陽に輝いて、早春なのにぎっちぎちに着込んだピーコートの肩を滑った。
アスフェルはルックの肘を掴む。ルックが驚いてポケットから出した手に素早く指を絡めてしまう。
ルックがキキョウに母親めいた愛情を注ぐ理由がやっと見出せた、とアスフェルは思った。自分を重ねていたのだ。自分が犯した、とルックが思っている過ちを、キキョウに繰り返させたくないのだ。つまりルックはアスフェルとの関係をまだ罪深いものであると感じている。アスフェルの将来を奪ってしまった、アスフェルの人生を台無しにした。そしてアスフェルへ申し訳なく思う罪悪感を上回る強さで、それでも身を引けない自分自身を責めている。さらに、もう後戻りができないくらいアスフェルのことが必要なのに、アスフェルを思いやるどころかアスフェルへもっと自分を思いやるよう求めてしまう。だから、ルック以上に不器用な生き方でぼろぼろに傷つくキキョウだけはそうなる前に何とか助けたかったのだろう。自分にはプライドが邪魔してできなかったことを、巣立つ息子の未来へ託す心境で。
アスフェルはルックの冷えた指先をきつく握った。
「無理しなくていい。心配もいらない。ルックは何の妥協も変化もする必要は一切ないんだ。俺がルックに捨てられないよう、ルックに合わせてみせるから」
ルックが力ない動きで俯く。
「……ほら……あんたが妥協してる」
「妥協じゃない。俺が、俺の意志で、自分をルックにふさわしい形へ進化させるだけのことだろう」
「そういうことじゃないしッ……そうやって、あんたに言わせる自分が嫌なの……分かってよ……。って思う自分も大嫌い……」
夕陽に伸ばされたルックの影が車道を走るバスに轢かれた。アスフェルの影はルックの体に落ちている。ルックが受け止めてくれている。
「俺は好きだよ、そういうルックも」
アスフェルは強いて何でもないことのように言ってみた。当たり前のことだとルックに知って欲しかった。実際に当たり前のことなのだ。ルックとともにいられるのなら他のすべてがどうだっていい。
ルックの瞳を覗き込む。ルックはいつも通り逸らそうとして――これが馬鹿馬鹿しいのだと思いでもしたか、彷徨いつつもアスフェルへ目を上げてきた。不安は簡単に消えないながら、昔よりずっと自信ありげな顔をする。
「……うん……知ってる……」
言い捨てて、ルックは再び歩き始めた。早く、と急かすように手を引っ張られた。解かれない、どころか、引っ張るためにしっかり握り返される。
アスフェルは笑った。こちらを見ようとしないルックの耳たぶが梅より真っ赤に咲いていた。ルックも自分を曲げてまで変化しようとしているらしい。唯一、アスフェルだけのために。
人前で手を繋ぐのは今まで禁忌のはずだった。