チョコレートトリュフ





「…アス」
通常なら喜怒哀楽の四要素しか持たないキキョウが、珍しく「深刻な」と形容するにふさわしい声音を発する。
アスフェルは軽く頷いた。
舌に乗せて、風味を確かめてから咀嚼してみる。
鼻に残る香りを堪能する。
悪くない。
故国へ置いてきた某一流シェフの料理に慣れているアスフェルでも充分楽しめる味わいだ。
テーブルの上には胡桃大に丸められたチョコが残り七つ。
表面にココアのまぶされた、ほんのり洋酒が香る――いわゆるチョコレートトリュフである。
「美味い」
端的に告げた。
とたんに花の咲くような笑みを開かせて、キキョウは彼の使用語彙圏に於いてかなり難しい部類に入る単語を間違えぬよう教えて寄越す。
「…バレンタイン、っていうんだ」
「そうか」
「…うん」
キキョウにこれ以上の賛辞は要らない。
きゅっと膝の上で固められていた拳がほどけるのを見て、アスフェルはキキョウの頭に手を伸ばす。
キキョウは目を伏せて喜んだ。





群島諸国では昔バレンタインという風習があったらしい。
らしい、というのは、流石に百五十年以上も前のことなのでアスフェルには確認のしようがないからだ。
偶然の巡り合わせからともに旅をしてもう七ヶ月、キキョウは如月に入ったころからやたらそわそわし始めた。
ひとりで買い物に行くことが多くなり、自分の荷物を極端に隠したがる。
さすがに何かあるとはすぐ勘づいた。
だがアスフェルとしては、正直なところ、恋焦がれる翡翠の風使い以外は基本的にどうでもいい。
そこでキキョウの相談役を買って出た宿屋の女将から事情だけ聞き出して、あとは放っておいたのである。
何でもバレンタインというやつは日ごろお世話になっている相手にチョコレートを贈る行事だそうだ。
期日は毎年二月十四日。
このチョコレートは手作りでなければならず、そして作成現場を当人に見られてはならない。
ある程度歴史に精通していると自負しているアスフェルでさえ初めて耳にする仕来たりである。
どうせキキョウのことだから、仮にバレンタインというものが本当にあったとしてもどこか曲解しているのだろう。
しかしあまりにも懸命に隠すので、かわいそうになってアスフェルはそっとしておいた。
作り方やキッチンの手配を宿屋の女将に相談しているから事情はこちらへ筒抜けだし、キキョウが自主的に何かをするなんて、それだけでも極めて歓迎すべきことである。
頼むから食わないでやってくれ、とのみ女将に釘を刺して、アスフェルは当日まで文字通り知らぬふりをしたのであった。





キキョウは心底満足そうな顔をしている。
「…誰かにあげるの、初めて」
もらったことは多々あるらしい。
後ろで不安げに様子を見守っている女将へそっと目配せして、アスフェルはキキョウに笑いかけた。
「ありがとう。ひとりでよく頑張ったな」
「…うん」
キキョウは一層深い笑みを形作る。
紅潮する頬を両手で押さえ、ほっと息を吐いた。
いつも周りに流されるだけだったキキョウが自分で考えて自分で行動したのだ。
緊張も、達成感も、それまでとは比較にならないだろう。
百五十年以上生きてきてここまで初々しいのはどうかと思わないでもないが、キキョウは育った環境がかなり特殊である。
だから己の限界も無限の可能性も、これから少しずつ学べばいい。
キキョウひとりを導くくらいの余裕ならアスフェルには充分残されているのだ。
(そういえば、ルックも甘いものに目がなかった)
いくら歳月を経ようとも尚鮮やかな懐かしい翡翠を思い浮かべる。
甘すぎても駄目で甘みがなくても駄目。
彼が好む微妙なラインを一晩かけて懸命に探ったのだ。
そう思い返せば、キキョウの初めて手がける手作りチョコはよりその労苦が偲ばれる。
アスフェルは丁寧に箱へ収められたチョコレートトリュフの、残り七つのうちひとつを摘み上げた。
「キキョウ」
「…?」
ぽいと口へ放り込んでやる。
キキョウのことだから、きれいな形にできたものはひとつも味見していないに違いない。
最高のものをアスフェルへと気を遣ったに違いないのだ。
「本当においしいから、食べてごらん」
アスフェルは自分でももうひとつ頂く。
キキョウは目を丸くして、それでもきちんと食べて、とろんと瞳を潤ませて。
「…良かった、おいしい」
初めてかもしれない自己肯定を、口にした。








悪ノリしてみましたバレンタインデーです。
だからね、ルックだとどうしてもあはんうふんいやんな展開にしないとむしろ坊様甲斐性なしじゃないですか!!
でもバレンタインごときでヤツがいい目を見るのは私が悔しいのです。
(ついに坊様と私はキングオブヘタレの地位を争うようになったらしい)
ということでえらくご機嫌なキキョウちゃんの登場でございました。

20060214