男も、齢五十を超えると昔のことばかり思い出していけねぇ。
息子に譲った船が出港するのを桟橋から眺めて、俺は人知れず息を吐いた。
秋茜の群れる低地を西に敷き、東は女王の治める国へ続くと聞く大海。
野分の去った後は殊の外空気が澄んでいる。
風向き良好、絶好の釣り日和だ。
俺は潮の匂いが染みついた着流しの袖をまさぐった。
半紙と煙管と小銭が少々、愛してやまない賽子は家に忘れてきちまったらしい。
手持ち無沙汰に煙管を銜えて火を灯そうとする。
かつん、火打ち石から飛ぶ火花。
俺の手を焼きちりちり消える。
が、刻み煙草は詰めっ放しで湿気っているのかなかなか点かなかった。
この空のようにからりとはいかねぇもんか。
仕方ないのでそのまま銜える。
煙草は時化った味がする。
雀が数羽、頭上を飛んだ。
俺はタイ・ホー、酔狂な男。
今の俺は、さぞかし時化た面だろう。
まさに人生の潮時だ。
船を愛しちんちろりんを愛し、粋の一文字を背にしょって乱世を生きた俺は、今やすっかり老いさらばえた。
カクの町があるゴウラン地方からずっと東、海に面す港町へ居を構えてもう十年になるか。
今夜はとっくに離縁しちまった女房が来るってんで、息子は張り切って祝い膳にと鯛でも釣り上げてくるつもりでいやがる。
(ヤム・クーを同乗させたから、まさか空振りにゃならねぇだろうが……)
そこまで思い煩って俺は煙管の端を噛み締めた。
ヤム・クーだってもう四十四だ。
嫁ももらわず店も持たず、義兄弟だからと言っては俺の側を離れる気配もねぇ。
二人揃って腑抜けた大人の良い見本だ。
押し掛け女房にさえ愛想を尽かされたやもめ暮らし、気は楽だが張り合いもない毎日。
女房との間にもうけた一人息子はそんな腐れた環境下でも実に立派に育ったが、よもや俺のおかげであろうはずもない。
息子の器量が良かったのと、酒場の女将の気立てゆえ。
息子はもはや俺の息子というより酒場の末っ子である。
今の俺にできるのは親の役でなく大人の役ですらなく、息子の漁が首尾よくゆくことを港から案じるのみだ。
昔は楽しかったなぁ。
口中でのみ呟き、俺はぼんやりと蚤ほどに遠ざかった船を見る。
俺は、気紛れたぁいえ二度の大戦に関わった。
そして星の奇跡が起こるのを目の当たりにした。
あれから十五年以上経ったが、トランは今でも安定した共和国で、デュナンも癖のある各都市をよく纏め上げている。
操舵の腕ひとつで世を渡ったあの時代。
俺は何と若々しく、また風雅な男であったか。
俺は昔を懐かしみ、かつて同舟した仲間の面影をなぞる。
ずっと、そんな毎日だった。
今日もその繰り返しであると――俺は、疑わなかった。
マジだぜ?
なぁ、アスフェル。
酒場の女将はその肥えた図体にふさわしい大声を出す。
「客だよ、タイ・ホー!」
港を震撼させるような活力だ。
女将の檄を背に受けた心地がして、俺はだらしなく銜えていた煙管を袖に仕舞った。
「あいよ」
軽く手を挙げて応ず。
俺は振り向きもしないが、とやかく言うような気性の女将ではないからこれでいい。
続いて急かす声がしないのを確かめると、俺は再び煙管を出した。
客などここ数年来別れた女房かガスパーしかない。
どちらも酒場でちびちびやるのが好きなクチだ。
俺が今すぐ行かずとも、どうせ女将とよろしくやっているだろう。
ならばもう少し潮風に吹かれていくか。
俺は桟橋へ胡坐をかいた。
秋晴れの空、すうと冷気を含む風。
正面へ鎮座する秋の海は深い青みを見せている。
夏には感じられない侘びしさが枯れた俺にはちょうど良く、俺の手を離れて生き返ったような船を見ながら懐古するのもまま悪くない。
俺は煙管の端を犬歯でもてあそぶ。
今夜は久しぶりにヤム・クーと夜釣りに行こうか。
女房のいる家など五月蝿くてかなわねぇ。
秋刀魚が釣れたら港で炙って、網に季節外れの烏賊が掛かればそいつは女将への土産にしよう。
女将には何から何まで世話になっている。
たまには恩返しと洒落込まねば立つ瀬がない。
ぐうと風が強まって、俺は砂埃に目を閉じた。
「――久しぶり」
懐かしい声がする。
最近富みに思い出すことの多い、俺にとって最初のリーダーだ。
何でもできちまうように見えて本当は並々ならぬ努力を怠らなかった、つい構いたくなる男の声である。
行方をくらましたと聞いてもう十五年、あいつは、ア……。
「タイ・ホー?」
ふいに視界が翳る。
俺は驚いて瞼を擦る。
幾度も瞬きすれど、眼前に映ずるは記憶にあるのとほとんど変わらない端整な顔立ちだ。
俺は思わず煙管を取り落とす。
幻覚にしてはよくできていやがらぁ。
細けぇことに、後ろにくっついているのはこれまた懐かしいもやしのようなガキの姿。
小生意気で魔力一辺倒だった石版守、名前は、そう、忘れもしない。
「……ルック、か」
声にした途端、幻想は現実になった。
「そうだよ」
ないと思った相槌が返る。
俺はもう一度目を見開いた。
昔の俺は今よりずっと眼力に自信を持っていた。
あの時のように、俺は奥の奥まで視線を切り通す。
漆黒の髪、漆黒の瞳、翻る漆黒のマント。
棍に手荷物をぶら下げて穏やかに佇む様はかつてより厳かさを増した。
後ろのルックは髪こそ短く切り落とされていたものの、きつい翡翠の虹彩は一切の衰えなく俺を見据えてくる。
ゆったりしたローブに身を包んでいるところは昔と変わらないのに、彼を取り巻く風向きがいくぶん快いものになったようだ。
どちらも、あんなにも思い起こしたかつての同胞である。
懐かしき栄光。
(懐かしい……俺の、仲間)
俺は声が出なくなった。
胸に何か痞えた感じがする。
痞えは轟と迫り上がって喉を塞ぐ。
俺は知らず息を止めていた。
「そんなに驚いたか?」
「……あ、ぁ……」
「久しぶりだな、タイ・ホー」
「……あぁ、本当に」
かつて惚れ込んだ力強い輝きが、再び俺にも移ってくるようだ。
現るは、相変わらず柔和に笑むアスフェル=マクドールと、相変わらず孤高に聳えるルックであった。
俺は家へ案内した。
うちったって狭苦しい漁小屋だ。
町の片隅、小さな掘っ立て小屋、住まいはあの解放軍時代から大して変わらない。
ルックは心もち右足を引き摺っているように見える。
アスフェルが手を貸して、ルックをゆっくり畳間へ座らせる。
ルックは謝意を示すためか頷いた。
かつては決して見られなかった光景だ。
俺は二人の変化をじっくり見極める。
ルックはもっとつんけんしていて、他人を頼るどころか手助けひとつすら拒む奴だった。
口が達者で取っつきにくいと遠巻きにされるガキではあったが、他人を利用しようとしないところが俺は気に入っていたものだ。
何でも自分でやり遂げようとする心意気に、俺は弱い。
見れば見るほど急速に昔の俺らしさが戻ってくる感覚がして、俺は急いて昔の俺らしく鯔背に笑ってみた。
……失敗だ。
アスフェルは口の端に気遣う笑みを上らせた。
「元気そうで良かった。ろくな生活をしていないんじゃないかと思って、多少心配していたんだ」
「ははは、あながち的外れでもねぇぜ」
相変わらず鋭い元リーダーである。
見栄を張ろうと思わないでもなかったが、こいつに小手先の細工は通用しねぇ。
俺は現状を晒すことにした。
小汚い家、擦り切れた着物、……すっかり老けた俺。
ふたりと自身を見比べて、俺はのろのろと紋章の呪いを思い出す。
アスフェルやルックが右手に宿すという真なる紋章は宿主を不老にするらしい。
昔はさして気にも止めなかった噂が今は重く圧し掛かってきやがる。
俺がこうして心まで老いればなおさら、ふたりは昔のままの若さに満ち溢れ、時に逆らえなかった俺を嘲笑うようだ。
羨ましい。
どこか置いていかれた気さえして、俺はとりあえず座布団を勧めた。
「……それよりお前ら、何かあったか?」
相変わらず隙のないアスフェルはともかく、ルックの雰囲気は昔の石版守を知るものなら只事じゃねぇと脂汗でも垂らしたくなる豹変だ。
雰囲気ががらりと丸っこい。
俺は再会の挨拶もそこそこに尋ねてみた。
目を伏せていたルックは曖昧に首を振り、ひたすら黙して俺を見つめるのみである。
「いろいろ……あったんだ」
口を開きそうにないルックの代わり、アスフェルが苦笑して答えた。
その黒い瞳へ隠しようのない喜の色彩を見て取れば俺は何となく事情を察した気になる。
やもめ暮らしも十年過ぎれば板につくもんだ。
手早く茶を淹れ卓袱台を出し、散らかるようなものが何もないがらんどうの部屋はそれなりに寛げる空間へ早変わりした。
「ま、飲めや」
湯飲みは大きさも色もまちまち、中味も謙遜でなく粗茶である。
アスフェルは軽く頭を下げると湯飲みへ息を吹きかけた。
珍しい。
口を付けもせずに吹き冷ますなんて、まったく昔のこいつらしくねぇ。
俺は茶請けを探しながら――そんなものがこの家にまるでないのは俺が最も熟知していたが――ふたりの様子を観察した。
ルックの角はほどよく取れている。
体型こそ何か大きな病気でもしたように痩せ細りぎすぎすしているものの、眼差しが春霞のようにふわりと凪いでいる。
解放軍時代からアスフェルの一人相撲を知っていた俺としては、もしやこいつらついに成就したかと合点するに充分な変化だ。
俺の勘はふたりの来訪で一気に往時の冴えが戻ってきている。
老いたのは俺の冒険心であって、俺自身がもう使い物にならなくなったわけじゃねぇ。
そんな当たり前のことに今さら気づかされる。
(そうだ……俺は、ただ腐ってゆくだけの男じゃなかった)
俺は拳を握った。
アスフェルはけっこう真剣な表情で茶を冷ましている。
昔から整いきっていた顔立ちは今もって翳ることがない。
しばらく吹いてある程度湯気が収まると、アスフェルはその綺麗な顔へ満足げな表情を浮かべた。
するとルックが冷めた湯飲みをひょいと奪う。
アスフェルは当然のように咎めなどせず、腕を伸ばしてルックの前へ置かれたままだった熱い湯飲みを口にして、美味いと一言呟いた。
「何だ、そりゃ」
俺は思わず頬を緩めた。
やっぱりこいつら、うまくいったな。
喉からくつくつ音が漏れる。
俺はルックへにんまり笑いかけた。
もちろん綺麗さっぱり無視される。
アスフェルは思わせぶりに微笑んで、話題をがらりと転化した。
「キンバリーとは別れたんだったな」
「何で知ってんだ」
「シーナにも聞いたし、ウォーレンにも聞いた。グレンシールも知っていたみたいだったが、さすがにキルキスは知らなかったな。吃驚していた」
「へぇ……」
懐かしい同胞の名が次々挙がる。
聞けば、ここ数ヶ月で次々に旧友を訪れては協力を依頼しているらしい。
俺はアスフェルから目線を外した。
会話にほとんど加わらないルックが部屋の隅に転がっていた息子の釣竿を拾い上げている。
小さかった息子の背に合わせて作った小ぶりの竿だ。
ルックの目元が少しほころぶ。
本当に、変わったなぁ……。
アスフェルの淡い恋はついにルックを支えるに足る力強い愛にまで昇華したか。
柄になく浮いた言葉を巡らせて、俺はその純粋な言の葉が似合うルックを目で追った。
釣竿へついと滑らせる右手の指先はどこかぎこちない動かし方だ。
細い竿の先などうまく掴めないで幾度もつまみ直している。
しげしげと眺めていれば、すぐさまアスフェルの牽制する眼差しに遮られた。
手を出すなってか?
馬ぁ鹿、出さねぇよ。
俺は肩を竦めてアスフェルへ問う。
「協力ってなぁ何だ」
「タイ・ホーには船を借りたいんだ。群島諸国まで所用があって」
「おぅ、船だけか?」
「それは交渉次第だと思っていたんだけど」
「……いた?」
「タイ・ホー、俺を見て顔つきが変わっただろう。この町で一旗揚げる気にでもなったか?」
「……」
俺は息を呑む。
次いで苦笑した。
確かに俺は、アスフェルの口から協力という発言が出た途端目を逸らした。
なぜなら、俺もこの地でやり直したい、新たな船を手に入れて息子と張り合えるくらいの何かを成したいと考えたからだ。
アスフェルはこんな短時間で俺の耄碌した心を見抜いたのみでなく、徒波に時化ていた俺がまさに今アスフェルへ揺り動かされたことまで察している。
相変わらずよくキレる洞察力だ。
流されるがままその瞬間を粋に生きるのも男だが、息子がいる今、そればかりではちょっといけねぇ。
大人ひとりひとりが無自覚に生きては、家族も町も、そして国家も立ち行かなくなるもんだ。
アスフェルがそうだったように努力はし過ぎるに越したこたぁない。
俺はふっと息だけで笑んだ。
アスフェルに面すと思考の枠がいきなり広がる。
これはかなり気持ちの良い感覚だ。
と、ルックがぽつり口を開いた。
「賭ければ?」
相変わらず傲岸不遜、いや、凛と澄んだ声音である。
「ちんちろりんで、こいつが勝ったらタイ・ホーが船を操縦してよ。負けたら」
ルックが急に声を切る。
アスフェルがふと目を上げる。
がらり、立て付けの悪い扉が軋み開けられた。
「――またあっしのいない間に決めちまう気ですかい」
漁から帰ってきたヤム・クーだ。
魚の入った籠を土間に下ろして、潮にさらされた髪を手拭いで粗く扱く。
客人がいてもとことんマイペースなのがヤム・クーのヤム・クーたる所以だ。
草鞋を土間へ脱ぎ捨てると畳にあがって勝手に茶を沸かし始める。
「若は女将んとこへひとっ走りでさ。……アスフェルさん、ルック。こりゃあ久しぶりだ」
ヤム・クーは目を細めた。
目といっても前髪に隠れてほとんど窺えないから、俺でなければ分からないくらいだ。
俺もつられて瞼をゆるめる。
アスフェルは嬉しそうに立ち上がった。
「久しぶり、ヤム・クー」
二人は固く握手を交わす。
解放軍がまだ矮小だった頃、アスフェルと六歳しか違わないヤム・クーは時折シドニアと三人で酒をやったりしていた。
普段俺と魚介類にしか興味を示さないヤム・クーが珍しくアスフェルに肩入れしていたのを俺は今でも覚えている。
俺だけでなくヤム・クーにとってもアスフェルは特別な存在だったのだ。
ヤム・クーは潮でしゃがれた声を和ませた。
「ちょうど良かった。今日はキンバリーさんが来るってんで、若が真鯛を釣り上げましてね。あっしもこの地方では珍しい恵比寿鯛をやりましたから、早速うまい刺身に仕上げましょう」
「タイ・ホーの息子さん?」
「えぇ、もう十三になる器量のいい子でね」
ヤム・クーは余計なことまでべらべら喋り出す。
いいから魚捌け、と俺が言うまで二人は立ち話を続けた。
見るとルックが俯いている。
ルックは席へ戻ってきたアスフェルの裾を軽く握り、つんと自分の方へ引っ張った。
角の取れたような雰囲気は先ほどと変わらない。
……が、どうやらほのかに怒っているようだ。
アスフェルが自然な仕草でルックの頭を抱き寄せた。
旋毛へ頬をやんわり当てる。
ぽんぽんと軽くルックを撫でる。
途端にそっと空気が静まって、ルックは甘えるように唇を尖らせた。
「……おい、お前らな」
さすがにこれは、止めるしかねぇだろう。
俺はアスフェルに恨まれるかもしれないのを承知の上で強引にほうじ茶のお代わりを注ぎ足した。
アスフェルはルックの髪へ唇を落とす。
ルックがほんのり目元を染める。
俺は気づかないふりをした。
キンバリーが来て、アスフェルとルック、ヤム・クー、俺、息子の六人でささやかな夜宴を催した。
キンバリーは今アンテイの町で居酒屋を営んでいる。
息子が俺のところに残った理由でもあるが、キンバリーはこの日も大量に飲んだくれて真っ先にぶっ潰れた。
ヤム・クーとアスフェルは俺に劣らずかなりの酒豪だ。
久しぶりに飲み比べようと、俺は滅多に出さないとっておきの大吟醸を開ける。
解放戦争の終結直前に時の軍師から頂いた一品だ。
俺にとって若かりし頃の誇りであり、輝かしい記憶でもある。
いつもなら宵越しの金は持たぬが信条、一息に飲みつくすところであったが、なぜかこの酒だけは仕舞っておいた。
自身でも説明のつかない発作的感情だった。
米酒は一口ごとに喉を灼くうまさだ。
死んでいった仲間、再会を約して別れた仲間……今の俺を形作ったものが次から次に去来する。
息子は珍しく大戦のことを聞きたがった。
解放軍決起のあらましや有名なシャサラザードの海戦など、アスフェルがひとつひとつ丁寧に答えている。
感嘆してはしゃぐ息子はいつになくよく喋る。
息子はアスフェルがかのトラン解放軍の英雄と知って無邪気に喜んでいるのだ。
あいつが歯列を見せて笑うところなぞ、ここ近年で俺は見たことがあったろうか。
隣でヤム・クーがほっと溜息を漏らす。
至って些細な動きであれど俺はすっかり冴えた眼で捉えた。
「どうしたよ」
「……兄貴まで昔みたいだ。いやぁ、良かったな、と思いましてね」
ヤム・クーは杯をルックの方へ向ける。
ルックはアスフェルへ寄りかかるようにして舟を漕いでいる。
囲炉裏の向こう、柔らかい湯気と灯り越しにルックの睫毛が頬へ影を落とす。
「あのふたりは、互いにいつか離れる時が来ると知っていたじゃねぇですか。だから、互いに今を包み隠さねぇで喧嘩ばっかり」
そうだった。
何度とばっちりにあったことか。
ヤム・クーは俺に昔のような笑みを見せる。
「でも、どれだけ時が流れても、兄貴。こうしてずっと変わらないものが……あるんですね」
俺は初めてリーダーを乗せて舵を取ったトラン湖城を思い出す。
今は首都となったデュナン湖ほとりの本拠地を思い出す。
俺に酒を遺してほどなく逝ったマッシュ。
叶えられた願いを次は永続させるため、己を滅して国に貢献したレパント。
友のため生き抜いたリツカ、リツカのためリツカを旅立たせたシュウ。
俺は奴らのほとんどと連絡ひとつ取っちゃいねぇ。
だが今なら、奴ら全員とまだ強く残る絆を視認できる。
俺の一部は今でも皆と繋がっているんだ。
俺はいつだって、俺は孤独じゃねぇと信じて生き直せる。
「……良かった」
ヤム・クーはしんみり呟いて酒を含んだ。
こいつはこの酒がマッシュの遺品であることを知っている。
うまい、と杯を置いて、ヤム・クーはルックへ視線を投げた。
うとうとと微睡むルックはアスフェルの腕へ手を掛けている。
たまに頭がずり落ちそうになるのを、アスフェルがそのたび深い慈しみを以って支えている。
「何だかこっちが照れますね」
ヤム・クーは頭を掻いた。
俺は息子へ視線をずらす。
息子は息子なりに先の大戦を学んでいたらしい。
昔の俺には見えちゃいなかった大局を考察してはアスフェルへ問う様が、俺の子とは思えない勤勉さだ。
両親の関わった戦争に興味を持つのは、それだけ両親を慕っていると判じて良いものか。
ならば今まで俺に何も言って寄越さなかったのは、俺が女房との思い出に悩まされると気を揉みでもしたのか。
つくづくとてもじゃないが父親が俺だとは思えない息子である。
俺が父親として息子にしてやれたのは何があっても手放さなかった船をついに呉れてやっただけ。
だのにあいつは汚れひとつない目で真っ直ぐ俺を見て、父ちゃんありがとうと涙ぐんだ。
俺はあの時の感動を今でも鮮明に思い出せる。
……俺は、本当にいい息子を持った。
「タイ・ホー」
アスフェルが呼ぶ。
俺の杯はすっかり空だ。
何事かと眉を持ち上げてみれば、アスフェルは苦く笑って隣を指差した。
「キンバリーもだけれど、毛布あるかな」
「何だ、もう酔ったか?」
「……ルック、まだ療養中なんだ」
俺ははたと口を閉ざした。
そこから先は聞くべきでない。
俺のような一介の引退漁師が関わって良い次元じゃねぇだろう。
だがアスフェルは続けた。
「いつか滅びる運命にある人類を……この世界を、救いたいと思っている。そのためできるだけ多くの味方が必要だ」
「また、宿星が?」
「それはないだろう。俺もルックも、天魁星に選ばれることはない。だからこれは純粋に俺の望みだよ」
息子が素早く立って押入れを開ける。
俺と同じことを思いでもしたか。
おまえが気遣う必要はねぇ。
今や時代は、すべておまえのものなんだ。
アスフェルは固くなる雰囲気を紛らすようにはにかんだ。
「せっかくルックに好きって言わせたんだから。できるだけ長生きしないと勿体ないだろう? 世界が壊れては困るんだ」
「い、言ったんですかい!?」
ヤム・クーが口を挟む。
俺もさすがに予想外だ。
俺はヤム・クーと二人してルックを注視した。
ルックは本格的に睡魔へ絡めとられている。
黙ってりゃただの繊細でひ弱なガキにしか見えない。
そもそも男同士だという問題は遥か昔からのふたりを見知っているだけに棚へ上げるとして。
確かにルックは昔より柔らかくなっちゃいるが、あれだけこまっしゃくれたクソ生意気なガキに限って自主的にその単語を発するなんてこたぁあり得ねぇってもんだ。
「どこまでが捏造だ?」
アスフェルは柳眉を下げた。
「ばれた? すときを続けて言ってもらっただけ」
「……相変わらず姑息っつうか卑怯っつうか軟弱っつうか」
「ルック相手に頑張った方だろう」
「誰もそれくらいじゃ褒めねぇよ、馬鹿」
ヤム・クーが若、と顎をしゃくった。
息子は長いこと干していない毛布を手で払い、一枚をアスフェルに手渡すともう一枚をそっとキンバリーにかける。
俺は肺の間が震えたような気持ちになる。
俺は老けたと思っていた。
俺はしがらみなんて厄介なものはひとつも持っちゃいないと思っていた。
俺は、アスフェルのように非凡な才など持たぬと思っていた。
どれもこれも、俺自身が作り上げた戒めであったか。
杯を空けて笑うアスフェルは相変わらず関わり合うすべてのものへ強い影響を与えずにいられない。
それはアスフェルが一生懸命だからだ。
どこででも手を抜かないからだ。
こんなにも必死でルックを愛し、きっと今だってこいつはルックのために心底尽くす気でいる。
昔トランへ尽くしたのよりも丁寧に、根気強く、こいつはその永い生が果てるまで全力を惜しまないだろう。
「まぁ……何だ、お前らが来てくれて、良かったよ」
俺は精一杯の謝辞を述べた。
アスフェルは首を振って笑う。
ルックはアスフェルから離れる素振りもなく寝入っている。
わきわきと、右手がアスフェルを探して握られる。
アスフェルはちゃんと悟り、手を触れ合わせて、ごく小さく唇を噛んだ。
幸せを自覚するとその先が怖くなる。
俺も経験がある。
俺はこっち方面の分野に関する先達として、かけがえのない息子の肩を叩いた。
アスフェルはキンバリーを示しながら首を傾げてくる。
それはねぇな。
俺は目で返してやる。
息子は――アスフェルと名づけられた息子は、俺らのやり取りが分からずにとりあえず茶漬けを作った。
熱い湯が腑にしみる。
鯛皮の茶漬けは格別に美味かった。