「ロイロイ、おいで」
ぱんぱん、とまるで柏手を打つように両手を高く二度鳴らし、カノンは猫なで声を発した。
場所は宿屋の窓の外。釣り場へ向かっていたロイは、遠く巻貝状の建物を仰いでちっと舌を打つ。
「その呼び方やめろつってんだバカお」
「誰が?」
「……へ、」
「だから、誰が馬鹿なの? ロイロイ以上に?」
「オレ以上ってさりげなくフカシてんじゃねーぞてめ、第一ロイロイ言うなってなんっべん言わせんだこのバカおう」
「二回目」
「……は?」
「だから、ロイロイが不敬罪を挽回できるように二回目のチャンスをあげるってこと。もう一度聞くけど、誰が、馬鹿、なの?」
「……え、っと、」
「この件に関して、城内でロイロイに並ぶものはないと思ってたんだ、僕」
「――ってオレがいちばんバカってことじゃねーか! あとしつこくロイロイ言うんじゃねぇよこのバカ王子!!」
どうも噛みあわない言い合いの末、ロイはついに大きく叫んだ。ちなみにカノンのまろやかな声音はいつなんどきも他のあらゆる音を掻い潜ってロイまで響く。似たような声を持ちながらまったく異なる性質のロイは、喉の奥からバカと二文字を張り上げた。
「ああ、やっぱりロイロイが抜きんでてるね」
カノンはさらりと受け流す。近くに立っているベルクートが口許を覆っているのが見えて――間違いなく失笑しているのだ――ロイは猫目をぎんっときつく吊り上げた。
「で、ロイロイ。不敬罪は不問にしてあげるから、おいで」
「ロイロイ言うなって!」
「恩赦は嫌い? それともお小遣いが欲しい?」
ひらり、懐からちらつかせるのはいかにも重たそうな皮袋。ロイは無言でカノンを睨み、しかし素早く階段を駆けた。カネは万物の霊長だ。
ロイのほっつき歩いていた釣り場と宿屋は直線距離こそそう遠くないものの、歩くとなると非常に大回りせねばならない。加えて上がり下がりの多い城である。全速力で階段を上り、つり橋をぎしぎし踏み鳴らしつつ、ロイは俊敏に宿屋のある建物へ駆けつけた。
「リオン、タイムは」
「十一秒八。新記録です」
「やっぱりモノがかかると違うな。こういうの、火事場の馬鹿力って言うんだっけ」
「ぜー、はー、っそーゆーのをセーカクブスっつうんだよカノン!!」
リオンは時を正確に計測することができる。すげえ、と場違いな驚嘆でリオンの頬をうっとり見つめ、しかしささやかな暇潰しを見つけたりという和やかな顔で談笑さえし始める主従に、息を切らしながらも手を差し出すのを忘れないロイはぷつんと堪忍袋の尾を切った。カノンの胸倉を掴むべく勢い任せに腕を振り回す。――が、すっとカノンが後ろへ下がり、あわせてリオンが半歩出た。長年守られ慣れたものと守り慣れたものとの、非の打ち所なき連係プレーだ。ロイはぎりっと奥歯を鳴らす。
「リオン、正確ブスって?」
「はい、俗諺かと思われますが……あまり良くない意味のようです。ロイ君、それが王子の悪口でしたら、私は容赦しませんけれど」
「だって。ロイロイ、ピンチ?」
「てめぇな、そーやって何でもかんでもオレぁ王族だから知りませんってなツラすんのもセーカクブスっつうんだぜ。もーいーよオレの負けで! んで何だよ何くれんだよ」
ロイは腰に片手を当てて非常にむっすりと不貞腐れた。しかしまだ右手は突き出したまま。貰えるものは貰っておくのが貧乏性の最たるものだ、とは指摘されずとも己が一番よく分かっている。
カノンはくすぐったそうに苦笑した。
「ごめんね。はい、これ」
カノンは皮袋をごそごそ探り――じゃらじゃら、金貨の音がする――左手に一摘まみ取り出した。ロイが思わず目を見開くと、カノンは途端に愛くるしいまでの笑顔へ変ずる。同じ顔だがこうも表情が異なるものか。カノンは清らにして冷ややか、ロイに持ち得ない貴やかな色を目の内側から自然に醸し、ロイへたった一言命じた。
「お手」
「……わん」
正直体裁よりカネだ。ロイはカノンの要望へ応えてカノンの右手に掌をのせる。名犬よろしくきちんと吠えたロイの横、ベルクートのみならず通りがかったリヒャルトまでもが大きくぶっと笑い出し、ついでに宿屋の中からこちらを見ていたらしいノルデンにまでも笑われた。カノンは満足そうである。
しかしすぐには手渡さず、カノンは握り締めたままの左手をロイの眼前へかざしてみせた。ロイの瞳が拳にあわせて揺れるのをおもしろがってくすくす笑う。性格ブスここに極まれり、だ。
やがて拳はロイの正面、ぱっといきなり開けられ、ころがり落ちる何かをよく見もせずにロイははっしと受け止める。細長く尖った感触だ。ポッチではない。
「……鍵?」
「僕の部屋じゃないよ。食堂の貯蔵庫」
「……ええと、王子サン?」
「今宵は焼酎より白ワインがいいな」
「……オレにかっぱらってこいと」
「物分かりが良いね」
「……そりゃどーも」
残念ながら、ロイはもう少し察しが良かった。鍵をポケットへ押し込みながら今夜遅くの宴会を約す。潔癖症のリオンが盗賊紛いの行動に眉をひそめても、または消灯時間に就寝しない王子へ懸念を示しても、フォローする気はあまりない。カノンの方が重症だからだ。
「お前なー。甘えたいならさ、もっと素直にできないもんかね」
「……できないもん」
案の定、ロイと同じ顔の持ち主は、打って変わってさも湿っぽく幼さの残る顔を歪めた。ロイは銀色の頭にぽんと手を置き、幾度か軽くそこを叩く。だってカイルが、と言いかけた声はリオンの前で形にならず、ぐずぐず崩れて湖に消えた。
友達など作ったためしのないカノンは、友達との付き合い方をまったくと言っていいほど知らないのである。なにしろ、友達――というより誰でもいいから誰か他人――に愚痴を聞かせることすらも、カノンにとっては初めてだからだ。
後で聞いてやるよ。そうロイが猫目を閃かせたのを、どこまで捉えているだろう。カノンはしゅんといじけた顔で宿屋の前へ立ち竦む。
ロイは努めて強く、励ますように、カノンの背中をぱんぱんと打った。
ちなみにおまけ。↓
「……でね、ロイロイって呼ぶと怒るんだけど何で? 仲が良かったらあだ名で呼ぶものじゃないの?」
「ミューラーさんをあだ名で呼んだら殺されるよ〜」
「二人ともな、それは嫌がらせっつーの。カノン、誰にンなこと吹き込まれたんだ」
「父上の友人で、群島諸国出身の人」
「あー、じゃあグントーショコクの習わしなんじゃない?」
「テキトーなことばっかつるつるゆうなっつうのリヒャルト! こいつお前並みにバカだから信じちまうだろーが」
「だから僕らの中ではロイロイがいちばん馬鹿だって結論で、ね、リヒャリヒャ」
「オレが!? カノンどころかリヒャルトよりもか!? オイコラなめんな天然クソッタレども!!」