テンガアールは涙もろい。
もちろんよい方の意味ではない。
感情的になり過ぎるきらいのあるテンガアールは、他者と意見がぶつかった時、相手へ己の論理が伝わらないことを悟った瞬間涙ぐむ。
それは決して憤りからではない。
相手に自分の正論が伝わらないのは仕方のないことで、説得しきれない己にもそれなりの非はあるのだろうから、相手に対して腹が立つとか憎らしいとはさほど思わないのだ。
何よりも「この人には伝わらない」と諦めてしまうことが一番悔しいのである。
どうせ自分の思いなど伝わらないだろう、なら無用の諍いを生むより自分が折れてしまおう。
普段は何でもまず自分の意見を通そうとするテンガアールであるが、この時ばかりは非常に保守的かつ臆病になり、半ば無意識に、そして半ば意識して、自分の主張を閉ざしてしまう。
中途半端な状態で沈黙を貫き、強引に議論を終わらせるのだ。
結果、空しい沈殿が残るだけでなく、どちらも己が論理こそ真実であると思い込むため互いに相手をただ蔑む。
その情けない事実にこそテンガアールは最も悔しさを覚えるのである。
だから、相手への憤りは本当に少ししか湧かないのだ。
……少しは噴出するけれど。
「もー、いい」
今もさんざんアップルに言い負かされて、テンガアールは涙に潤む瞳を見られまいと咄嗟に席を立ち上がった。
場所はテラス。
昼下がりというより夕方に近いこの時刻、ピーク時に比して人けは遥かにまばらながらも、テンガアールとアップルとの声高な口論へ周囲の視線はとっくに集中してしまっている。
「ぼく、急な用事思い出しちゃった。ごめんね」
わざとらしい言い訳をこさえるやテンガアールはさっとテラスを後にした。
アップルはまだ言い足りないらしく、――いや、テンガアールが逃げたことで、自分の理論は正しいのだとより強く認識したのだろう――隣の席でお茶を飲んでいた女友達へ正しい理解の必要性など説いている。
皆が均一に高度な教育を受けられるよう社会制度を整える必要がある、だって。
ばっかみたい!
テンガアールは再び激昂した。
そして再び、涙が溢れる。
上を向いたら少しはましになるだろうか。
眦に溜まる雫を人差し指で払いのけ、テラスの扉をそうっと閉めて、なるべく薄暗い廊下を選ぶように遠くへ遠くへ足を動かす。
(ぼく、ああいう考え方が大っ嫌いなのに)
アップルとやり合った内容。
反芻すればまた涙の滲むそれは、戦争犯罪に関してである。
勝者が正しいと断ずる暴論、勝利こそが民衆を救うのだという弱肉強食の理。
歴史は常にひとつしかない、それは勝者によって解釈された勧善懲悪の筋書きである、……そうシンプルに割り切れないテンガアールが変なのだろうか。
だってそれなら、負けた国家はいつまで悪い?
同じことをして同じように人を殺しあって、負けた方は侵略を仕掛けただの凶悪な思想を持っていただのと決め付けられて、それは勝者が勝ったからこそだ。
もし他方が勝っていたなら、侵略も思想もすべて今否定されている側だけが正当化される。
だから、正当化されたいのなら、勝つしかないのだ。
そんな言い分を甘んじて受け入れられるほど人は賢くない。
脚色のない情報だけを入手できないし、対局を見通せるわけでもない。
そもそも情報とは誰か人の言葉を介す以上絶対に主観性が加わるものなのだ。
だから一般的に流布するものはすべて勝者にとって都合のよい喧伝に過ぎない。
そうやってもたらされるものから自分の力で是非を判断するには、目前の出来事、日々の生活や好きな髪飾り、恋の話なんかが頭の中を占めすぎている。
政治的、または国際的な何かを俯瞰するほど知識も意志も大きくはない。
テンガアールは未だにこの都市同盟軍による戦争の意義がわからないが、それで不自由することはほとんどないと言っても良く、毎日のささやかな暮らしが守られればそれでいいと自己中心的な平和を望むだけである。
(確かにそれは、だめなことかもしれないけどさ)
テンガアールは目頭を押さえた。
何とか涙を留めるためだ。
しばらくその場で突っ立った。
功を奏してだいぶ落ち着いた頭、赤みの引きかけた目を細め、テンガアールは左手にある扉を開ける。
途端、ぱんと開ける鮮やかな光。
いつの間にか牧場へ来ていたのだ。
秋晴れの空は気持ちよく風が吹き抜けて、ゆったり流れる鰯雲。
綺麗に実ったトマトや秋茄子の向こうでユズが羊に餌をやる。
解決しないことを、いつまでもぐだぐだ考えるなんて。
「ちょう、やだな」
「何が?」
ぱ、と両手を口元へ当てた。
思考が外へ漏れていたのだ。
聞き咎められたことを殊の外恥じ、テンガアールはやや赤面した。
「……あれ? どこ?」
しかし、声の主が近くにいない。
ぐるりと四方へ首を巡らす。
芝生を揺らす風。
畑の土の、いい匂い。
日はわずか西方へ傾き、柔らかい光源が足元へ薄淡い影法師を作る。
……上、だ。
かさりと落ちてきた一葉にテンガアールは頭上を仰ぐ。
ルックは、大木の枝へ腰掛けていた。
ミューズでの戦が相当に後味の悪いものだった。
テンガアールとアップルだって、最初から互いの主張をぶつけていたわけではないのだ。
それがミューズの話のどこで引っかかったのか、気づけばアップルの一言で非常に不快な思いが迫り上がっていた。
「そういうの、ぼくはいっつもだめなんだ。ぼくの言ってることがほんとに合ってるかどうかなんてわかんないもん。でも、アップルの言うことも何かすっごくむかついて」
反論せずにはいられなかったのだ、とテンガアールは俯いた。
手元の土へ指を押し付けてみる。
ひんやりした感触にふっと心が解れるようだ。
畑の隅へ盛られた土の、少し平らになっているところへ、二人は衣服を気にせず座った。
隣で両足を投げ出すルックは相槌のひとつも打ちやしない。
視線は金烏の向こうにあって、テンガアールどころかアップルやシュウなど大人の目すらも超越した、何か遠大なものを見抜いているように感じられる。
ルックはいいなあ。
テンガアールは素直に羨んだ。
頭が良くて魔法もできるし、確かに口は悪いけど言ってる内容にぶれの生じることがない。
それが正しいか誤っているかはテンガアールに判断しようもない――そんな判断ができるくらいならそもそも打ち負かされたり泣いたりしないのだから――けれど、己の理念を常に一貫して持っているところなどはとても同年代に思えない。
それに、重要な補足事項がひとつある。
あのアスフェルに想われているところだ。
あんな、一歩間違えば気狂いすれすれの、完全無欠向かうところ敵なしの支配者性が本気で惚れぬく相手なら、きっと自分を誇ることなどとても容易いに違いない。
「あのさ、大人たちにイヤミとか言われてさ、ルックは悔しくないの?」
テンガアールはついつい尋ねた。
ルックはその年齢と毒舌、特に歯に衣着せぬ辛辣な物言いが、魔法兵のごく一部や他部隊の兵らにひどく疎まれている。
皆ルックの実力ゆえに表立って中傷できないだけで、影でルックがどう言われているかを知らぬものは少なく、怨念高じて良からぬ行為に及ぶものまで出ると聞く。
やはりルックほど不遜になると相手の気持ちなど歯牙にもかけないのだろうか。
自分の意見が受け入れられなくても泣きたくならないのだろうか。
テンガアールはそこまで言及しなかったのだが、ルックはこちらの意図を的確に汲み取ったようだった。
つまらなさそうな顔をしたまま、別に、と小さく返事が届く。
「立場が違うからね」
「それって、おんなじことを体験しないとおんなじ立場になれないってこと?」
「知らないけど。……少なくとも僕やあんたは、赤月帝国やハイランドの弊害を直接受けてはいない」
「……そっか」
テンガアールは空を見る。
納得は、できない。
いくら皆が同じ環境にいても受け取る気持ちは皆違うものだ。
そして、皆が同じ内容の教育を受けたとしても、やはり同じ思想にはならないんじゃないかと思う。
皆が同じように理解し、同じように記憶することなど不可能だからだ。
でも確かに、テンガアールがハイランドの脅威を認識するには思った以上に距離がある。
ならば妥協とは相対する意見が決して折り合わないことを知ることにこそあるのかもしれない。
ルックはゆったり膝を折り、両手で抱えて背中を丸めた。
そうすると余計小さく見える。
女のテンガアールよりずっと線が細い。
やっぱりみんなが分かり合えないことは、寂しいよ、ルック。
そうやって諦めてたら苦しいばっかりだ。
テンガアールは目を伏せて、瞼に浮かんだ彼氏の背中を地に描いた。
そうして余所事へ関心を移行させれば、束の間感じた寂寥はいくらか和らぎ頭が冷える。
「あのさ、ヒックスってああ見えてぼくより二歳も年上なんだよ」
「知ってる」
「でも、ルックよりぜんっぜん頼りないよね、何かあったらすぐにおどおどしちゃって」
「かもね」
「でも、いいとこだっていっぱいあるんだよ」
「ふぅん」
指がすっかり泥で汚れた。
いっそ手のひらまでと冷たい土へ両手で触れて、ぎゅっと押し固めたりしてみる。
テンガアールは植物が好きだ。
下手くそながらも花壇を作り、ヒックスが後でこっそり手直ししてくれていると知ってできるだけこまめに草花を植えた。
成人の儀式の旅に出て随分になるからあの花壇はきっと朽ちてしまったろう。
ぱんぱん、と固めた土を手のひらで叩く。
吸い付くような冷たさが気持ちいい。
(ちゃんと考えないと、だめなのかな)
こうやって気を散らすのが良くないのは分かっていても、誰にとっても等しく正しい答えなんか出ない問題をいつまでも考え続けることは苦痛だ。
それでいつまでもざらざらと地面を撫でていたら、突然ルックが真似をし始めた。
恐る恐る、土に指を刺す。
幾度か指で線を引く。
縦に数本綺麗に引いて、掻き消すように楕円を描いた。
「どしたの?」
「……別に」
ルックはつまらなさそうな顔だ。
テンガアールにはそれ以上推し量ることができない。
こうやって大地を触るのが初めてなのかもしれないなどと想像すらも及ばないまま、テンガアールは黄昏時まで土をいじって無為に過ごした。
ルックは一足先に城内へ戻ってしまう。
それを笑顔で見送って、自分はこのまま迎えを待とうとなぜだか意固地に誓いを立てる。
ヒックスの声が届くのは、それからほどなくしてだった。