「…さーさ、のーは、さーら、さら」
キキョウが突然口ずさみ出し、俺ははっと壁のカレンダーを見た。七月七日、小暑。七夕だ。
昔はキキョウとその兄の三人で裏山の笹を勝手に一枝頂戴したり、町内の商店街が「ご自由にどうぞ」とやっている短冊に一枚残らず落書きしたりしたものだ。だがキキョウの成人とともにそういう悪戯を何となく卒業してしまい、以降七夕というイベント自体を忘れている。
「…のーきーまーに、ゆーれーるー」
「軒端だよ」
「…のーきーばー? ぁにー、ゆーれーるー」
今日は雨だから天の川は拝めそうになかった。それでもキキョウはガラス窓に額を押し付けて空を見上げ続けている。
そのガラス、明日になればグレミオが俺の額の跡だと思い込んで掃除するんじゃないだろうか。苦笑すれば、俺の向かいで数学の宿題を黙々と片付けていたルックが唐突に目線だけを上げた。
「その歌」
歌、と言われてキキョウが歌うのをやめる。
「七夕の歌なわけ?」
「…えっ……うん……」
頷きながら、キキョウがちらりと俺を見る。何で今さらそんな自明の質問を、とでも言いたそうだ。いや、キキョウはそこまで考えないか。賢いルックに面と向かって問われると自信がなくなっちゃうんだけど、合ってるよね、アス? ――みたいな感じだろう。
キキョウへ頷き返しつつ、俺の思考はかなり飛躍して暗澹たる事実に行き着いている。ルックは童謡を知らない。代わりに他ジャンルの歌なら知っているかというとそうでもない。つまりルックは、幼子のほとんどが味わうような、歌声を聞きながら眠りに就くという至福の経験を持たない。手遊び唄も。かごめかごめも。
実際は違うのかもしれなかったが、歌といえば音楽の教科書に載っているものしか知らないのだろうと俺は思った。
「…おー、ほし、さーま、きーらきら」
ルックが宿題へ戻るのと同時にキキョウも再び歌い出す。俺は二人に気付かれないようきつく奥歯を噛み締める。砂の感触を彷彿とさせる音が鳴る。
かわいそうだとか、憐れだとか、同情はほんの表層でしかない。ルックに対して一元的な価値観による評価が妥当であるはずがない。
俺は、ルックの不足にこそ、惹かれているのだ。
雨がしとしと降りしきるなら雨雲の上で逢えばいい。天の川の氾濫に嘆くばかりだろう彦星へ発破を掛けてやるつもりで、俺はキキョウの歌声に乗っかって斉唱した。