「僕が死んだら、」
石版前に佇む彼が、突然、話しかけてきた。
「きっと死体は残らない。そして、魂も」
話しかけてきたのではなく、誰かに聞かせるための独り言であるようだ。だから彼はこちらをちらとでも見やるどころか俯いてさえいるらしい。
しんしんと音のするような深夜、三日月の月明かりはさも弱々しくて、夜目には彼がこちらへ横顔を向けていることくらいしか察することができなかった。表情などは暗さでまったく窺えない。寝巻きに着替えていないのか、いつも額につけているサークレットが月光に縁取られていて、ああ横顔らしいとようやく分かる程度である。
唐突に始まった不吉な囁きと、裏腹に淡白すぎる口調の、ちぐはぐさが狭い部屋の暗がりに馴染むようだった。
「いつか消えるなら……どうして、最初から、消えていなかったんだろう」
ひどく感傷的な言の葉が散る。ぽとん、と。
――腹が立った。
「よく、そんなことが言える。石版へ赤く刻まれた名を見ながら」
思わず荒い声が出た。だが、苛立ちは静かな湖城へ吸い込まれてゆく心地がした。声を潜めようかという逡巡はおかげでひとつもしないで済んだ。
月の縁取りがゆうらり動く。彼がこちらを向いたのだ。
「言えるよ。あんたにとってはたったひとりの従者でも、僕にとっては数ある宿星のひとつに過ぎない」
「喪失の痛みは生前の親近度で決まると?」
「以外に何があるっていうの」
彼は淡々と呟く。
本音じゃない。と、なぜか感じる。
こんな夜中に用もなく石版の前へ来て、暗すぎて見えない石版の文字をさも眺めているふりをする。そんな無意味なことをする人間が、同じ日、同じ時間に二人もいる。つまり彼も、同じように、口には到底出せぬ夢を見たのだろう。お互いに。
「……グレミオは、どこへいるんだろうね……」
彼は赤字の名を出した。
「知らないのか?」
「やっぱりあんたの右手かもしれないし、もしかしたら、違うのかもしれない」
「ここに、いない可能性もあるのか」
「真なる紋章について解き明かされていることなんて、ほんのわずかしかないんだよ」
右手の甲を撫でてみる。反応はない。
さっきまで一歩も動かなかった彼は、石版へとんと手を突いた。幾多の名が彫られてざらざらとした表面を指で読むかのようだった。袖で衣の擦れる音がやけに大きく感ぜられた。
ふいに、彼は足を出す。暗がりでまっすぐに横をすり抜け石版の間を後にする。足音とその軌道には一縷の乱れさえもない。
その迷わなさは、果たして潔しといえるだろうか。いつもは凛としている背中が今夜だけいやに細く見えるのは、彼が迷っているからか。
アスフェルは、彼の気配が遠のいてくれるのを待った。
そして、ようやく名を呼んだ。