リソグラフ





また、喧嘩した。
ルックは深く目を閉じる。
リソグラフの騒々しい稼動音。刷り出される紙束から上る熱気。室内を歩き回る誰かの足音。インクの不思議に落ち着く匂い。視覚を閉ざせど鋭敏な他器官が周囲の情報をつぶさに受信し、胃の中で毬栗が転がるような、ちくちく刺さる重たい痛みは一向に消えるそぶりもない。
喧嘩はこの頃しょっちゅうだ。たいていルックが大人げなく苛立ち、つまらないことで何時間も張り合ったりする。例えば風呂の湯加減だとか、卵の賞味期限、生ごみの捨て方や新聞のまとめ方。後で思えば本当にくだらないことで毎日のように衝突している。
今朝も言い争って家を出た。……まだ仲直りはしていない。
ピ、と印刷用紙の補充音が鳴る。すかさず脇に準備した束を突っ込む。
ふたりでアスフェルの買ったマンションに越してからもう二ヶ月以上経っている。互いの生活習慣は天と地ほども違いがあって、基本的にルックは何でもきちっとしなければ気のすまない性格だ。対してアスフェルはああ見えて大雑把なところがある。スプーンを食器棚へ仕舞う時にどうして柄の部分を揃えようとしないのか、ルックにはまったく理解できない。
また、そういった小さな、今までは気づかなかった彼の一面を発見できたことを、素直に喜ぶような心的余裕が残念ながらルックにまだないのも問題だ。毎日ともにいられるだけでルックのプラス感情の針はとうに振り切れてしまっている。それこそ些細なことにまでやたらと苛立つ原因であろう。
そして、ともに住むことで顕著になったあいつの悪癖が、ひとつ。
(最終的に……あいつがぺろりと謝って済ますのが気に食わないんだよね)
ぽん、と肩に手を置かれ、ルックはようやく目を開けた。印刷はまだ終わっていない。邪魔しないでよと振り向きざまに目で言えば、一応ルックより三年先輩になるジュッポが苦笑を浮かべて立っていた。
「あのな、雰囲気。恐ろしく悪い」
うるさい、とルックは脳裏に叫ぶ。だが口にすることはない。さっきから何やら話しかけたそうだった気配は背中にずっと感じていたし、ここでヒステリックに追い散らしても事態は改善されないからだ。ジュッポが駄目なら次はゲン、クロウリー部長までルックをあやしに席を立つ。鬱陶しいことこの上ない。
ルックはひとつだけ溜息を吐いてどうにか心を落ち着けた。ただし剣呑な目つきが一層強まったようで、ジュッポは一歩あとずさる。
「だから、その眉間の蛇腹ぐらいどーにかならんかって。土曜日の午後だぜ? 明日は休みなんだぜ?」
「ほんとに休むのはあんたくらいでしょ」
「あー……地雷踏んじまったか」
「だいたい残業いっこもしないでその皺寄せがどこに来てんのかくらいちょっとは考えたらどうなのさ、しかも置いとくのぜんっぶ事務処理、僕が前週末にやっといたげたとこからきっちり一週間分」
「そーゆーのはオレよかルックの方が手際いーかんな」
「自分でやらなかったら一生上達しないよ。あんたいつまで僕に尻拭いさせ続けるつもりなわけ」
「んー、代わりの後輩が入るまで?」
「傍若無」
人、と言いかけて口を噤む。発声しかけた空気の塊が咽喉に溜まって肺まで落ちた。きゅう、と胸が圧迫される。そのまま唇を噛んで俯いてしまう。
ジュッポが何かを察しないはずはなかった。
「……や、そーかなーと思ってたけどやっぱあの御仁絡みだよなー……一緒に住んでんだろ」
「放っといてよ」
「お前、意外と溜め込むタイプなんだよな。面と向かった嫌がらせは素でスルーするくせに、実は害意のないのに弱い」
……けっこう、当たっている。しかし是だと返すのは癪で、ルックは思い切り睨みをきかせた。ジュッポがさらにもう一歩さがる。
「おお思うに」
どもるジュッポ。情けない。だから彼女にたった二日で逃げられるのだ。いや、それはジュッポでなく多分に彼の姪っ子のせいだからここで持ち出すのはあまり良くない。
――などと殊勝な考え方は、あいつの影響こそ色濃いものだ。いつの間にか考え方や判断基準、生活習慣、好み、立ち居振る舞い、すべてがあいつと同じようになってゆく。
「思うにな、お前はきちきちしすぎなんだわ。神経質すぎ」
「だけどあんたみたいにはなりたくないよ」
「オレもオレみたいにはならん方がいいと思うが」
「でも僕らしさって何なのさ。変わっちゃったら僕らしくなくなっちゃうんじゃないの」
「……そうか?」
「そうに決まってるよ、だってもう昔の僕とは随分違うんだから! それなのにそれでもあんたは、――ッ」
らしくなく激昂、我に返って口を塞ぐ。羞恥に頬がわずか赤らむ。
「あんた」は目の前にいるジュッポではない。どんどんあんたに染められてくのに、あんたはずうっと僕らしさが好きだって言う。一緒にいればいるほど前より大雑把な自分、前より我侭で前よりちょっと穏やかな自分、まるであんたに重なるみたいに変容を遂げる自分がいるのだ。そのうち表裏がかけ離れた図柄のトランプになって、それは表から見ただけでは気づかないのかもしれないけれど、あんたみたいに裏まで見てくる人間が相手なら今までと違う札であることはきっとすぐに露見してしまう。
そんな時、
「……困る」
何が、とはジュッポも尋ねてこない。もはやジュッポに向けられた声ではないからだ。そしてルックも、何が困るのかを具体的には表現できず、二人して奇妙なまでに押し黙る。
リソグラフのがこがこ動く音が気まずい沈黙をいくらか誤魔化してくれそうだ。胃の中はさっきよりいがいがしていて、リソグラフの単調な排出音に伴ったものか規則的に痛みを撒いた。
もうすぐ昼休憩の時間だ。刷り上るまで操作する必要のないリソグラフの前へ突っ立ってばかりもいられない。他に仕上げなければならないことがたくさんある。明日は休日出勤だから集中力のいる仕事を回して、
――なんて、どうでもいい雑事を考えることでどうにか冷静になろうと必死だ。
「よくわからんがとりあえずそーゆー時は、飲むか? 今晩」
ジュッポがくいとジョッキを傾ける仕草をしてみせた。何度断っても懲りることを知らないお節介な先輩社員だ。
昨年はよくアスフェルにも誘われて、居酒屋の雑駁な雰囲気を好まないルックはその度アスフェルと飽きもせずもめた。結局いつもあんたが折れて、ごめんって、謝るんだけど。そういえば最近は誘われもしない。どころか我を通すようにもなった。家に帰るつもりで助手席に乗ったらそのまま連れて行かれたり、実は庶民的なところに憧れているだなんて思わぬ理由を漏らしてくれたり。
変わってゆくのは、ルックだけではないのかもしれない。
「……決めた」
ルックは口の端を歪めた。
ピ、と機器から作業完了音が鳴る。間髪入れずに次の原稿をセットして、ルックはジュッポを不敵に睨んだ。ジュッポがまたもや一歩後退。その隙にスタートボタンをばちんと叩く。新たな原稿が出てくる前に刷り上った印刷物を取り出して、重い紙束を一息にリソグラフの上で均した。
「……今日は僕から、ぺろりと言ってやる」
ジュッポがひょいと肩を竦める。
精巧ながらも粗い複製を、リソグラフは再びがこんと吐き出し始めた。


この後飲み会が続くはずだったんです。べろべろに酔うルック、いつか書きたい!
20070114