アスフェルに、耳が生えていた。
「何その猫っぽい耳、……と、し、尻尾も!?」
僕は思わずアスフェルの腰を指差した。我ながら寝起きにしては大きな声だ。だって耳と、ついでに尻尾もついている。出会って五年、こいつには散々驚かされてきたものであるが、さらにストックがあったらしい。
「寝坊した僕への新しい嫌がらせ?」
「ルック。まず鏡で自分の頭を見ておいで」
だがアスフェルの諭す、その声が妙に、深刻味を帯びている。
「……まさか」
僕は無言で自身の頭へ手を遣った。てっぺんと耳とを結ぶ線上、こめかみの斜め上あたり。さらさらの毛並み、薄い皮膚、頭から違和感なく継ぎ目もない。
生えてる。僕にも!
引っこ抜けないかとそれをまさぐるとくすぐったい感覚がした――もちろん、僕の耳として。
「……ア……アスフェル」
「俺じゃない」
「じゃあ何なのこれ、あんたのも僕のもッ」
「知らない」
当然こいつのせいだろう。決め付けて僕はソファに腰掛けるアスフェルの目を睨みつける。が、アスフェルにしては珍しい、ぶっきらぼうな短い返答がかえったのみで、僕はおでこの辺りから血液がざっと首の下まで引いていくのをまざまざとリアルに知覚した。
アスフェルがこんな言い方をするのは彼が珍しく戸惑っているからだ。漆黒の瞳とお揃いの黒耳に黒尻尾はどちらも力なく揺れていて、尻尾の先でさらさらの白い一房が、ぱた、とソファの足元を打つ。彼に似合いの、先だけ白いがある点から急に黒くなる尻尾。
――にしても、何であんたそんな冷静なわけ!?
「ルックが眠っている一時間で俺は充分騒ぎきったからね」
「……じゃあ、一時間前、すでに」
「ああ、ルックは生えていたな」
「あんたはいつ生えたの」
「その数分後」
アスフェルの耳は黒髪と同化するほど黒い。つやつやの毛は濡羽色、きちんとした正三角形に尖っている。掻き毟ったのだろう前髪が乱れて耳に数本絡まっており、アスフェルがぴんと耳を弾くのに併せてはらりと額へ滑り落ちた。
――動くの!? 耳も、尻尾も!!
「しかし、弱ったな。ルック」
項垂れると耳も尻尾も垂れ下がる。尻尾は床へ着いてしまって、白い部分だけくるりと半円を描いている。
何だか哀れなアスフェルの様子に、僕はきゅ、と唇を噛んだ。アスフェルが一時間悩みぬいても解決策が見出せないのだ。つまり、相当やばい。こんな事態であれど、否、だからこそ、僕はアスフェルの騒ぎきったという一時間を信頼している。このアスフェルにさえどうにもならない、これはかなり切羽詰った状況なのだ。
すると、僕のくるぶしへ柔らかい何かがまとわりついた。茶色くて細身の、しなやかな、
「――これ、僕の尻尾!?」
「慣れるとある程度は意志で動かせる」
「……って、どこからつながってんのさー!!!」
「お尻? 見てやろうか」
「どさくさに紛れてセクハラするなこの馬鹿!! 変態!! 明日学校へ行けないじゃない!!」
「そういう以前の問題だな」
言いながらアスフェルは、ゆったり、ソファから立ち上がる。僕に疲れた背を向けてどうやら窓辺へ向かうよう。そういえば服は、と何げなく注視した腰のあたりは、持参した大きめのパジャマのウエスト部分からうまく尻尾を出してあって、僕は不謹慎にもふっと表情をゆるめてしまった。ちなみに僕は……昨日の名残、パジャマは上しか着ていない。
――って、こんな恥ずかしいかっこで僕何やってんの。
「一つ、分かったことがあってな」
窓辺から聳える山脈と大通りとを見下ろして、アスフェルは僕を手招いた。僕は渋々アスフェルへ近づく。できるだけパジャマの裾を下へ引っ張ってみるが、膝上十五センチは変わらない。気休めとでも言いたいのだろうか、尻尾が勝手に僕の太股へ巻きついてきた。くすぐったい。力を入れると確かに尻尾の先っぽが動く。余計くすぐったいんだけど。
旅館の窓から広がる、富士山。アスフェルに倣い、僕も窓辺へ寄りかかる。そもそも僕らは、例によってアスフェルの「富士山が見たい」の一言で、土日を使って静岡県まで旅行に来ている。それでこの事故。最悪だ。
「ほら、ルック。通行人をよく見てごらん」
アスフェルが僕の頭をなでてきた。生えたばかりの耳の根元を柔らかく掻かれる。……気持ちいいかも。僕の耳は自然にひくひく動いてしまう。
かわいい、と隣で小さな呟きが漏れたのは、聞かないふりをしてやった。
「どうだ? 見えるか?」
僕は大通りを見下ろした。道ゆく人々に目を凝らし、半ば無意識に目を擦り、瞬きし、もう一度よく、窓をパジャマの袖で拭ってよぉく見る。ごく普通の光景だ――ある箇所を除いて。
「……うそ」
それは、僕には到底、信じがたいものだった。