リヒャルトが泣くところなど初めて見た。
それはやっぱり、ミューラーの腕に出来た小さな怪我を思ってだった。
片手の指が五本とも取れかかろうと、腕や足の一本が折れていようと、泣き言ひとつも漏らさず敵を倒すのがリヒャルトだ。
最初こそ痛覚がないのかとも疑ったが、さすがにちゃんとあるらしい。むしろ本能とでも呼ぶべきか、痛いことを敬遠したがる当たり前の気持ちが、リヒャルトの場合どこか遠くへ置き去られてきているのである。
カノンはカイルへ目線を送る。
戦争はこちらの大勝利、なれど医療班の控えるここは死の匂いで満ちている。カノンは頬に切り傷をひとつ作っていたが、もちろんその治癒が目的で足を向けたわけではない。戦死したものを、いくら少数で済んだとはいえ命を落としてしまったものを、気持ちだけでも弔いに訪れたのだ。
自身も戦闘の刀傷生々しい出で立ちでカイルは水の紋章を使った。戦争特有の疲弊しきった空気の中に、水の匂いが通りゆく。
すると、すうと周囲の兵から傷が消えた。ミューラーだけでなくそばにいたリヒャルトの肩も、カイルの腹を掠める傷も、カノンの頬の抉れた跡も。
カイルの実力を見せつけるような広範囲魔法はまさか敵兵の怪我まで治してしまったのではなかろうか。カノンは瞬時憂えてしまい、そんな自分に嫌悪した。ゴドウィン側もファレナの一員、カノンが守り支えるものだ。
カノンはリヒャルトへ視線を戻す。
リヒャルトはようやく泣きやんで、きれいに治ったミューラーの腕を確かめていた。本当に小さな傷だったから命どころか日々の生活にすら支障はない程度。ただ派手に出血し、見た目がちょっとひどかったのだ。おそらくミューラーをここへ連れてきたのはリヒャルトだろう。動かしがたい怪我でない限り、兵士はまず城へ戻りたがるものだからだ。
血を拭って完治しているのを認め、リヒャルトはひとつ、小さく小さく言葉を漏らす。
「……こわかった」
こんな舐めときゃ治る擦り傷でガタガタ騒ぐんじゃねえこの馬鹿、怪我のレベルくらい見極められねぇで傭兵なんざやってられっかこの愚図! ――修行し直してこい!
ミューラーの怒鳴り声が死にまみれた辺りへ不釣合いなくらいのどかな笑いを誘って、カノンはつられて口の端を上げた。
誰にだって怖いものはある。それが何かは誰にだってわからない。
カノンが恐れる不良騎士、どうしても嫌われたくないと願う相手は、戦争の後だというのに眩しいくらい柔らかな物腰で、カノンへ片手を差し出した。
「行きましょうか、王子。凱旋パレードですよ」
カノンは黙って、手を借り立った。