大学の裏門、理学部の研究棟から最も近い入口へフェラーリF50を一時路駐。
出ようとするのを呼び止めて、ちょいちょい、仰向けた人差し指にて運転席の方へと手招いてみた。
ルックはきょとんと目を開き、ああだからその仕草もかわいいから人前でするなって何度も忠告してるのに、片足だけ車から出した状態で上半身をこちらへ捻ってくれる。
俺はしばらく言葉を探して逡巡した。
「……気を、つけて」
されど出たのはいかにも凡俗、何の工夫も見られない一言のみだ。
俺はあまりの不甲斐なさにうっかり眉間を顰めてしまう。
「夜は直接家に帰るから。悪いけど。で、明日は一限から授業だし、あんた三限からでしょ、昼はいつもの席でいい? それで、ええと、……じゃあ、ね」
ルックは矢継ぎ早に喋った。
が、話題がなくなるやあっさりくるりと背を向けてしまう。
俺は思わずまた引き止めた。
あ、とも、う、とも、自分自身にさえ判別できぬ呻きが漏れて、しまった格好悪いと歯軋りするより目の前の存在がただただ大事だ。
もう少し。
もう少し、あと少し、ほんとにちょっとでいいから少し。
ルック、一緒にいたいんだ。
「……じゃあ……明日……」
でも俺は言えなかった。
そんな女々しいこと、大学生にもなって感情のままみっともなく口を開けてしまえるほど、俺はもう子供じゃない。
伸ばした右手は彼の腕まで届かないまま、俺は助手席にぽとりと手首を落下させる。
何か、口実は。
ルックを繋ぐ言い訳は。
俺は無駄と知りつつ無駄に車内を見回した。
アスフェルは笑った。
……ように、見えた。
「じゃあ、明日」
アスフェルは平然と――僕には何の動揺もないように見えたのだ――いとも容易く離別を告げる。
僕はうまく頷くことができない。
だからできるだけ素早く車を降りた。
自分から言い出しておきながら、このざまだ。
僕は後ろ手に助手席のドアを閉める。
ひとたびこいつから離れてしまえば、研究は楽しいし、独りで本を読むのも好きだし、僕は何時間でも何日でも独りで平気だ。
僕は基本的に人付き合いが面倒臭いから独りの時間を何より好む。
決して独りが嫌いなわけではないのだ。
……だが僕は、別れるこの瞬間が何より苦手だ。
早く苦しみから解放されたくてつっけんどんに追い払い、でも離れた刹那、隣にあったはずの気配がどんどん僕から遠ざかるのをまるで生皮でも剥がされているかのように知覚する。
あれが、どうにも耐え難い。
孤児院の前へ捨てられていた僕は他の園児同様置いていかれることに対して強迫観念を持っているらしい。
院長先生はそう仰った。
でも明日会えるって分かってるんだ、なのに不安で仕方ないんだ。
もう少し。
もう少し、あと少し、ほんとにちょっとでいいから少し。
アスフェル、一緒にいてよ。
「――ルック!」
びくり、体が竦む。
アスフェルが助手席のウインドウを開けて、運転席から強引に身を乗り出し僕を呼んだ。
「……なに」
僕は振り向かず答える。
授業中の大学は無人と思えるくらいしんと静まり返っていて、あと十分もすれば昼休憩、途端に活気とさざめきが息吹く。
僕はその前に行かなければならない。
教授に論文集を貸してもらう約束があるのだ。
「ルック」
アスフェルは再び僕の名を呼ぶ。
なに、と僕は再び答える。
別れの時間を、一秒、五秒と伸ばしたところでどうなるだろう。
その間苦痛が増すばかりだ。
ならいっそさっぱり一瞬で終えた方がいいに違いない。
僕は足早に研究棟へ向かう。
強張る膝を三歩進めて、僕は、次が、踏み出せなかった。
アスフェルはルックの腕を掴んだ。
咄嗟に車を降り、助手席側へ回ったのだ。
短く切り揃えられた爪がそれでもルックの腕へ食い込んで、アスフェルははっとして握力をゆるめる。
ルックは癇癪を起こすように勢いよく自身の腕をもぎ取った。
「急ぐから!」
「ルック!」
束の間見せたのはひどく傷ついた――怯える瞳。
心が荒々しく掻き毟られる。
見栄も体裁も、互いの前でそれこそ何の意味があろう。
アスフェルがいなければ生きていけない気がするからいなくても大丈夫なように強いて孤独を求めるのがルック、ルックなしでは生きる意味も見出せないから壊さないよう飽きられないよう慎重に扱うのがアスフェル。
そして互いに、相手がそういう男だと、何度もすれ違い確かめ合ったのだ。
アスフェルは今度こそ、きつく、ルックの背から肩を捕まえた。
ルックはついに振り向いて、そっと、アスフェルの胸へ額を埋めた。
「ここで待ってるから。すぐ戻ってきて」
「三限が」
「それまで一時間あるよ」
「でも教授が」
「……ルック、もう少し、一緒にいよう?」
「……ひどい」
ルックはぎゅうと縋りつく。
アスフェルはその旋毛へ鼻頭を遊ばせる。
夕方からアスフェルはバーテンのアルバイト、ルックは養母の知人が住まう隣県へ頼まれたものを受け取りに行く。
でもそれまでに五分程度は時間が取れるし、アスフェルのバイトが終われば電話くらいならできるかもしれない。
そうまでしてふたり触れ合いたいと望むのは、単に互いの我侭なのだろうか。
ルックはしょげた顔でアスフェルを見上げる。
いつもはこんなじゃないからね、と言いたげな目線に息で笑って、アスフェルは人目のまだない細い道の、門扉へ隠れるようにルックを世界から囲い込んで。
綺麗な翡翠の宿る瞼、己が唇を触れさせた。