胸キュン





アスフェルはふと歩みを止めた。
水辺に居るのは間違いなく風使いの石版守だ。どうやら足を湖水に浸しているらしい。脱ぎ捨てられたブーツが彼の右手へきちんと並べて立っており、準備の良いことに後で足を拭くのだろうタオルまで畳んで傍らに置いてある。
――ルック。
呼ぼうと口を開きかけ、しかしアスフェルは思いとどまった。
ルックはこちらに気づいていない。もとより彼に周囲の気配を探る様子がまったく見受けられないのだ。誰もいないと思い込んででもいるのだろう。
確かにこんな真っ昼間、太陽のかんかんに照らす水辺へ自ら出たがる酔狂者なぞ解放軍には多くない。
日陰を探して建物の北側へ訓練所を移す歩兵たち、まだ日差しのそうきつくない午前中に洗濯や掃除をすべて終わらせ午後はくつろぐ女子供。岩でできた涼しい城内はいつもより人の多い気がして、独りになりたいアスフェルはわざわざここまで足を伸ばしたわけである。
自分と一緒でない時のルックがどんな微風を纏うのか。何故だか無性に知りたくなって、アスフェルはそうっと息を殺した。
ちゃぽん、ルックの足が上下へ軽く揺らされる。ばた足と言うには弱すぎる勢いで幾度か足の甲が揺らめいて、湖に小さな波紋が綺麗な円形を描いて広がった。
(楽しい、んだろうか……)
アスフェルは塀に身を隠してルックを窺う。南西に面する湖から見て右中央、つまりルックのいる場所の北東に城はあり、城と湖を区切る低い塀が途切れ途切れに乱立している。アスフェルがその身を潜めたのは最もルックから遠い塀の裏で、ほぼ真上にある太陽は塀からわずかの影しか生み出さず、アスフェルはじりじりと頭のてっぺんを炙り焼かれるように熱を感じた。
それはルックとて同じだったのだろう。
ふいにルックが腕を捲くり、その白きに過ぎる両手をざぶんと湖へ浸けこんだ。肘の上まで水にさらして、法衣の袖がすぐさま水に染みてゆく。几帳面な割に濡れる袖へはお構いなしで、ルックはしばらく水を抱えるように上体を屈めるとやにわに両手を引き上げた。
水飛沫が舞う。
そのまま髪を掻きあげる。
ざっと通した指櫛で前髪から耳の真裏辺りまでがしっとり水を含みゆき、光に透ける金茶のトーンがやや暗んで収まった。
サークレットが陽光を弾く。
色のない額が水滴を受けて零れ輝く。
ふう、と大きく聞こえる吐息。
ルックは瞼を日に閉ざし、睫毛をわずか震わせた。
「……いつまで、そこにいるのさ」
突然ルックが問いを発した。己に向けられていると悟ったのはゆうに数秒が経過してからで、アスフェルは思わず背筋を伸ばす。
水の流れにいくぶん和らいだ声調が常になく清らかな風だ。冷たいほどの涼がある。
ルックはこちらを見ようともせず、ただ声だけを流して問うた。
「気づいてた?」
「さぁね」
ルックは頭を横へ振る。ほんの今まで油断していた、反省というより悔恨の念でも覚えているかのごとき否定。どこまでも口は素っ気無く、しかし態度は素直なものだ。この辺りが天邪鬼たる所以なのだろう。
アスフェルはルックの側まで歩み寄った。座るルックの隣へ立って、手のひらをかざして日影を作る。
「日焼けするよ。紫外線などで刺激を受けるとメラニン産生細胞メラノサイトのアミノ酸が黒色メラニンへ変化、これが過剰に作られすぎると表面に浮き出てシミやそばかすの原因になる。らしい」
「誰の受け売り?」
「ジーンとアイリーン」
「馬鹿馬鹿しい」
ルックはことさら、焼ききってしまおうとするように太陽へ顔面を仰向けた。
額から垂れる滴が顎を伝って喉まで落ちる。首の後ろで髪の先端に水の溜まっているのが見える。
ぎゅ、と。肺の間が激しく痛んだ。
「ルック」
「いいんだ、どうなったって。――こんな顔、大っ嫌い」
「……日射病になる」
「煩い」
弱々しくも、断固とした意志で発せられた負の語句に、アスフェルはひとたび息を飲む。
ルックは他者への興味がない。ましてや自分への感情なんて、職務のためなら傷を負っても平然としているくらいだから、相当薄いに違いない。――とは思っていたが、ここまで己を嫌悪するとは。
不幸の代名詞のような顰め面で自身を卑下するルックのことを、アスフェルは束の間苛立った感情で見下ろした。
「俺は、好きだけれど。ルックの顔」
アスフェルにしては化粧のない声で言う。
もっと穏やかに、言い含めるような語調にすれば良かったと脳裏を一瞬ざらつきがよぎり、されどルックが自分を大事にしないのが悪い、と。
……ルックは、自分がどんなに綺麗か分かっちゃいない。
そう思ったらとても優しく伝えてなんてやれなくなって、アスフェルは突き放すような口振りのまま端的に言い募った。
「つくりじゃなくて、表情が、だよ」
「あんた」
「俺がそう思うんだからそうだ。明日は全部隊で演習だろう、倒れる前に城内へ入る方がいいんじゃないか?」
「……それは、命令?」
「そう、軍主命令」
ルックは舌打ちしたようだった。もしかしたら何か言ったのかもしれない。だがアスフェルは身を翻し、足早に水辺を立ち去った。
言い捨てたみたいになってしまった。
嫌な感じだ。この訳もなく胃がむかつくささくれた感じ、肺がしぼんで詰まるような息苦しさ。
どうしてあんなに輝くんだろう。なのにどうして、危なっかしい?
――これが恋だと、気づく余裕はまだ足りなかった。


胸キュンバトンへ回答したついでに、ヘタレ坊的胸キュンシチュでした。…キュン?
20060731