三兄弟





「…う、わ」
ほてほてと歩くアスフェルをなぜかよけきれず、キキョウはアスフェルを抱えてころんとひっくり返った。
「あにしてんだよ」
「…だって、何か、アスがこっちせまってくるし」
テッドが呆れて問うてやるのへ、キキョウは拗ねた口調で答える。――答えてくるのだ。三つ以上の文節からなる短文で。
毛の長いカーペットが二人の体重を優しく包み、キキョウはくすぐったそうに微笑んだ。だるまさんのように座った体勢から後ろへ転げたキキョウの上へ、キキョウの腹によじ登る格好のアスフェルがじだばたとともに転がっている。亀の親子とどこか似通う間抜けさだ。
キキョウの上でうつ伏せるアスフェルはおきあがりこぼしよりずっと長い時間をかけてようやくむくりと上体を起こした。消しゴムくらいしかない両手でキキョウの服をわし掴んでいる。指の付け根がふっくらへこんで、指はどこが関節でどう曲がっているのか分からないくらい小さい。まだ明らかに他部位より重い頭をアスフェルが何とか持ち上げるのを、テッドはどうにもはらはらしながら見守った。
どんぐりよりずっと丸い目玉が、今になって急に大きく見開かれる。兄弟二人してそういうところばかり機敏に察知し、テッドとキキョウは慌てて互いの顔を見合った。
やべぇぞ、俺ァ関係ねーぞ、と見つめる目だけでキキョウをなじる。テド兄おにいちゃんでしょどうにかしてよ、とキキョウの瞳が訴える。目でものが言えるだなんて、えらくなったじゃねぇかコノヤロウ。
「……ぅ」
アスフェルが小さく喃語を発した。漆よりもなお輝く黒い瞳がきゅうと歪んで、テッドは思わず耳を押さえる。
やばい、泣く。
キキョウも同じ危惧のもと、腹に抱えたままのアスフェルをそっと両手で持ち上げた。脇の下へ手を差し挟めば蜜柑箱よりずっと簡単に上げられる。とにかくあやせば何とかなると、グレミオの育児を見よう見まねで真似てみるらしい。キキョウは仰向けに寝転んだまま何度か赤子ごと腕を虚空へ突き出した。
「…た、たかいたかーい、なんて……えへへ……」
「やべってキキョウ!」
「…テドに、どーしよっ」
「おいアスフェル、頼むから泣くな! お前が泣くと今晩もメシにありつけねんだ! グレミオさん本気で容赦なく俺らの分抜くからよ、な、な!?」
「…たかいたかい、アスたかーい」
「……ふ」
「あああああ待て、落ち着けアスフェル! 確かに俺ら兄弟がお前んちで毎日ちゃっかり晩飯を食うのは筋違いだ、だがな! じいちゃんがまぁた年寄りの気まぐれで今度はスリランカ行っちまったんだぜ!? 俺らだって海外とまではいかなくてもよ、グレミオさんの料理っつういい思いのひとつやふたつな、どうせお前んち毎日グレミオさんが馬鹿みてーに作りすぎんだしよ!」
テッドが必死の説得を試みる。多分このクソ生意気なガキは日本語を百パーセント理解している。口内の未発達ゆえに百パーセント話すことが叶わないだけだ。じゃなかったらこんな顔、
――笑顔。
キキョウが何度目かにアスフェルを持ち上げて、たかいたかーいと言った時。アスフェルは無邪気に、柔らかい笑顔を見せたのだ。
「…テドに」
キキョウが恐る恐る囁く。テッドが弱った視線を二人へ向けると、アスフェルはきゃっきゃっと楽しげに笑った。鈴をいくつも鳴らしたのより華やかで、ビオラの低い嘆きよりもゆったりとした、まさに極上の笑い声。キキョウが上下へ揺らすのにあわせて朗らかな笑顔で喜んでいる。
「…アス、かわいい」
先の危機などすとんと失念しきったキキョウが一緒になって笑い始めた。高く掲げてはぎゅうっとアスフェルをきつく抱き、そのたびアスフェルがキキョウの腕で楽しそうに暴れ出す。
「……けっこー、イイ性格してんだよな、お前」
「う?」
「う、じゃねぇよアスフェル。こっちまではいはいできたらこのテッド様が直々にあやしてやろう」
テッドの言葉へ敏感に反応し、くりっとした目をテッドへ向けるアスフェルへ、テッドは思わずゆるく笑った。何だかんだ言いつつテッドがこの家へ入り浸るのは、アスフェルがここにいるからだ。ライバルだとも思うし、癒される時もある。守ってやりたくもなれば、縋りたくなることもあった。何か強烈に惹き合うものが二人の間へ確実にある。友情などと生半可な語彙では収まらない縁をいつどんな時も知覚できる。
「…アス、やわらかくってあったかいね」
見ればキキョウはアスフェルと頬をくっつけあってじゃれていた。
アスフェルの顔はまだぽっちゃりとして、下方へ寄せ集まった目鼻立ちも愛らしい。また、それでいて父親譲りか潔いまでの端整さも持っている。
笑いあう二人を見れば見るほど、どうにも手元がすうすうしてくるのはなぜだろう。
「…苦しー、テドにっ」
「てー」
「ってそりゃ俺のことかよ、テッド様と呼べほら、テ、ッ、ド、さ、ま」
テッドは突然立ち上がり、二人まとめてがっしりと腕へ抱き込んだ。
キキョウがもぞもぞ身を捩る。アスフェルときたらキキョウを足蹴にちゃっかりこちらへ身を乗り出してはテッドへ明るい笑顔を見せる。懸命に伸ばされる小さい子供の手のひらは、肌がきめ細かすぎるせいなのか、テッドの頬へやたらしっとり吸いついてきた。ちゅっとその指先へ口づけてやり、喃語を自分に都合よく解釈するのも先の寂しい感傷ゆえだ。やはり理解しているのだろう、アスフェルが満ち足りた笑みを浮かべる。テッドの胸へ陽だまりを作る。
キキョウの胴は暖かく、アスフェルの頭は、バニラのようにふわっと甘い香りであった。


ぼつん1歳、よん11歳、テド18歳。こういう和気あいあいが大好きです。
20061126