とてとて、とキキョウが廊下を走る。おもしろくもないバラエティ番組を四チャンネルからコマーシャルごとに切り替えて、数字の大きいほうへと順番に回し、一巡りの後また最初の四チャンネルに戻ってきた時のことである。
テッドはついに、こたつの上へ頬をくっつけ、一つ目の欠伸を吐き出した。
「おいこらキキョウ。なーにばたついてんだ」
さっきから自室と廊下とを五往復ほどしているらしいキキョウへのんびりまったり呼びかけてみる。同時に二つ目の欠伸。
外は寒いし中は何もすることがない。訂正、することはあれどする気が起きない。台所へ山積みになった食器を洗うのも、自室でパソコンの前に陣取って仕事と学業の二種類ともに提出期限なぞとうに過ぎているレポートへ取り掛かるのも、寒さを伴わずには為し得ないのだ。
冬休みは人間にとっても冬眠するのにちょうど良い、などとだらけた思考を声音に乗せる。要約すると、退屈だ。
キキョウはぴたっと足を片方浮かせたままで動きを止めた。
「…テドに、タオルどこ?」
こちらの問いは聞こえなかったらしい。もし聞こえていたら、必ずその問いへ忠実に答えを返してくるはずだからである。話題を都合よく逸らす技術はキキョウにまだない。
そして片足を上げたまま両手を上下へ振る仕草なども中一にしては稚すぎだ。しっかりしてくれよ、と戒める気持ちも手伝ったのか、テッドはことさらぶっきらぼうな調子で答えた。
「いつもどーり洗濯機の上に出してあんだろが」
「…えっと、もう一枚、アスの分」
キキョウは相手の声調に頓着しない。発声された単語の意味を汲み取る能力がようやく備わったばかりだからだ。それでもどこか儚げに響く弟の応えをこちらは俊敏に読み取って、テッドはわずかに笑んでやる。
「あぁ、それなら、――って待てキキョウ!! お前何する気だ!!」
ただ今当家は来客中だ。それもとびきり上流階級、いわゆる資産家の大事な長男。キキョウはただ大人しくそいつをあやしていればいいのであって、それ以上の余計なことを、例えば万が一にも彼に傷のつくようなことは、決してしてはいけないのである。
兄の教えをつるりと忘却したご様子で、キキョウははにかみながら応えた。
「…アスと遊ぶの」
「だからどこでだ!!」
「おふろだけれど、テッド、だめかな?」
「駄目って……うおぃアスフェル」
いろんな想像を巡らすや――といっても主に愚弟により浴槽へ沈まされる三歳児の姿であったが――顔面を一気に青くして激昂したテッドの傍ら、いつのまにやら幼い声が割り込んでくる。テッドの座高より少し低いくらいの身長、触れずとも良質とわかるセーターを着こんでテッドの腕をくいと引っ張る、我が家の賓客ことアスフェルだ。
跳ね上がったテンションのままにテッドは子供へも牙を剥いた。寒いはずだがほっぺを赤く染め上げて、その様ときたらまるでふじだか紅玉だかを両頬へ搭載するかのごときアスフェルは、漆黒に踊る双眸をもってきょとんとテッドを見返してくる。子供ながらに端整な面だ。
「駄目っつうかな、真っ昼間に突然風呂へ入りたがる理由が俺には読めん」
「じゅうろくじさんじゅうにふんはまっぴるま? もうそらがあかいけれど」
この貴賓ときたら、こんな片言でもう九九が言えるのだ。どうかしている。
「オーケー、昼間の定義は次の機会に持ち越そうぜ。俺はお前の深意を聞いてる」
「キキョウが、せなかをうまくあらえないからって」
「お前じゃなくてキキョウが、か」
「それと、キキョウはたまにおふろでおぼれそうになるんだって」
「……お前じゃなくてキキョウが、だよな……」
「だいじょうぶ。ちゃんとじこにきをつけるから」
どれもこれも、齢三つのお子様から出る発言だとは信じ難い。しかも、こいつが言うなら二人の安全はある程度保証されたも同然なのだ。テッドは両手を開いて掲げた。降参である。
「わーった。お前一人に任せるのも悪ぃし俺も入るわ」
「せまくない?」
「おうおう言ってくれるね確かにお前んちと違ってふっつーの風呂場だけどもな。限られた空間をいかに有効かつ有意義に利用するか、これが日本の住宅事情ってやつなわけだ。もちろんお前んちはこの常識の対象外」
「テッドといっしょにはいるのって、すうかげつぶり?」
「するっと話逸らすんじゃねぇよ!」
「…多分、四ヶ月と二十六日ぶり」
「キキョウも計算してんじゃねぇよ!!」
大きく怒鳴るや、アスフェルとキキョウはきゃーっと手を繋いで廊下を風呂場へ駆けていく。……と思ったらUターンして、テッドの眼前を勢いよく通りキキョウの部屋へ飛び込んだ。まったくもって賑やかだ。
おもちゃ箱からあひるちゃんだかひよこちゃんだかを探す騒音が廊下伝いに心地よく届く。狭いとこにンなもん浮かべんじゃねぇよ、とは字面と逆の意味を含んでテッドの口中へ溶けた。テレビとこたつの電源を切り、バスタオルをチェストから引っ張り出して、ついでにシャワーラジオを脇へ抱える。一足先に風呂場へ向かうと、浴槽に湯を張り始めながら石鹸を湯船へかき混ぜた。
泡風呂を二人が喜ぶだろうと、その姿を早くも想像さえする自分自身が今どんな表情でいるのかなんて、ここ三年で何度も自問してきたことだ。洗面所の鏡が早く曇るようはっはと息を吹きかけてみる。するとキキョウの手形がほのかに浮かぶ。あいつ、何をやってんだ。思わずぶっと噴き出してしまい、隠すように下を向く。
ついと視線が落ちて足元。
そこへ確かに地面があって、ここが確かに居場所なのだと、テッドは質量を噛み締めた。