最大の告白





 ルックは大きく息を吸い込んだ。
「この際だからはっきり言っとく」
 翡翠に浮かぶ濃い疲労。余韻を含んで濡れる唇は怒りにつんと突き出され、何度目かになる事後の通告を眉間あたりへ厳しく孕む。
 アスフェルは、漏れる笑いを堪えていた。
「もう限界。ほんっとに限界なわけ。いい加減なんっべんも言ってんだから分かるでしょ」
「同時に何度も『限界』の先を見せてもらっているけれど?」
「だからそれが限界って言ってんの!」
 ルックはきっとアスフェルを睨むや四肢を彼から遠ざけた。
 素肌の離れる感覚は互いの隙間に寂寥をもたらす。しかし、たまにはこの空しさが不可欠か、と我慢する気になるのも事実だ。じゃないと、どれだけ大切な相手なのかを見失ってしまうから。
「ルック、あんまり苛々しないで」
「誰のせい……っく……!」
 ついに苦笑を声にしながらアスフェルの紡ぐやんわりした慰めに、余計神経を逆撫でされて勢い新たに飛び起きる。が、ルックは、腰の異変に呻きを上げてあえなくベッドへ逆戻りした。尾を引く不快感で瞳が歪む。すると苦悶が先の淫らな顔に似る。
「ソソるな……」
「また呆けたことばっかり言って! 明日授業に出られなかったらどうしてくれんのさ!」
「俺から教授に事情を説明しておこうか」
「ほんのちょっとでもマトモらしく聞こえる冗談すら出てこないわけ!?」
「じゃあ、こうしよう。ルック」
 八つ当たりを隠しもせずに怒鳴るルックへ、それが可愛くて仕方ないのだと目を眇めて慈しみつつ、アスフェルはぐいと細すぎる腰を手繰り寄せた。
 ルックが眉根を思い切り顰める。逃れようにも先ほど酷使した体がうまく動いてくれないのだろう。おかげで易々と毛布を掻い潜って手に入れることの叶ったルックはすでに素肌がひんやりしていて、大丈夫かな、と思わず心配してしまう。さっきの汗がルックを冷たくするのだろうか。いつものルックらしくなく、滴るほどにかいた汗。
「ちょっと、離しなよ」
「ルック。まともなことを言うから聞いて」
「……」
 ルックはアスフェルの押しに弱い。いつもなら嫌だと一蹴にして終わる場面を、アスフェルの声音如何で不貞腐れた沈黙へ切り替えてくれるのだ。
 ただし、せめてもの反抗として、きつい眼差しをふいと逸らしてしまうくらいはやむを得ない。そうやって伏せるルックの睫毛が儚くばらけているのを見遣り、アスフェルは、影の落ちる眦へ触れるだけの口づけを贈る。
 ルックが瞳を向け直すのにあわせ、アスフェルはベッドへ身を横たえたまま、できるだけきちんと背筋を伸ばして姿勢を正した。大事な話をするために。
「ルック。一緒に暮らさないか」
 ルックが瞠目、息を飲む。
「……どこで。誰と」
「ルックの好きなところへ家を買って。ルックと、俺と、二人でずっと」
「ぜっ」
「大学を卒業してからでいい。養母殿が気がかりなら近所のマンションを買えばいい。何なら隣の空き地を買い取っても」
「絶対」
「怯えるな」
 無理に決まってる、と突き放したがるルックへ人差し指を押しつけた。
 無理じゃない。ルックがアスフェルの立場を気遣っていることも、これ以上アスフェルに深入りしたくないことも、充分アスフェルに伝わっている。
 だから願うのだ。
 流れに任せるだけでは決して幸せになれっこないから。今なら若さゆえの好奇心と有耶無耶に済ますことができても、就職して、社会人になって、部下ができて、出世して。齢を重ね三十路を通り、四十代、五十代と、もう後戻りのできないところまで、漫然とこの状態を続けていられるわけがない。世の中に逆らう覚悟とそして苦難。進めば進むほど険しいばかりの道程である。
 もちろんアスフェルはずっとルックを愛しぬく絶大な自信をもっている。でも周りはどうだろう。いくつになっても独身のまま世継ぎをもうけようとしないマクドール家長男に次期当主の資格があるのか、答えは火を見るより明らかだ。身寄りのないルックにしても世間体があるのは同様。ただルックを愛すだけなら、アスフェルを愛しているならそれでいいと、気楽に構えていられる時期はもうすぐ終わってしまうのだ。
「俺が、必ず実現するよ。誰も傷つけないように。ルックが、ほんのわずかも辛い思いをしないよう」
「僕のことなんかどうだって」
「ルックが負い目を感じる生活で俺が安穏としていられると思うのか?」
「あんたの方が辛いじゃない!」
「ああ。俺一人では耐え難い」
「……ッ」
 理解してしまったルックが言い返せずに唇を噛んだ。結論が見えてしまった。どんな説得も効き目が失せる、まさに最強の論理を振りかざされたのだ。
 アスフェルはルックさえいればどんな非難も平然と受け流す。または、上回る成果を叩き出してみせる。そういう男である。アスフェルへ向かう周囲の視線を己が罪と感じるのはルックだけで、ルックが勝手にアスフェルを思いやるだけで、アスフェルにとって怖いものなど真にひとつも存在しない。
 だけどルックが必要なのだ。ルックがアスフェルを見限った瞬間、または別離を迎えた刹那、アスフェルはたやすくすべてを投げ出してしまうに違いない。ルック以外はどうだっていいのである。もはや依存などという生易しいレベルですら表せない。
 非の打ち所なく完璧に、両極端。強靭な意志と繊細すぎる愛情が共に巣食うアスフェルを、ルックはどうしようもなく胸衝かれて仰ぎ見る。
「……限界だって、言ったじゃない……」
「俺も言ったな。限界の先を何度も見せてもらっていると」
「それとこれとは」
「違わない。ルックが俺のためその矜持を曲げてくれることに変わりはないんだから」
 やはり先回りするアスフェルが、ルックへ逃げ道を示してみせる。アスフェルのせいで嫌々ながらと言えばいい。アスフェルに謀られたと怒ったっていい。そうすればルックはひとつも汚れないし、妥協も譲歩もしなくていいのだ。アスフェルの被害者でいることにちょっとうんざりしておけばいい。
 ルックは噛みすぎて白くなる唇へ手の甲を覆い被せた。途端に広がる鉄くさい味。
「ルック」
 勘付くアスフェルがルックの右手をさも簡単に取り外す。血の滲む唇を掬われる。さっきはルックの善がるところばかり執拗に舐めてきた舌先が、今は切れた唇を癒す目的でのみ、優しくそこへ触れてくる。
「そうやって俺のことで悩んでくれるだけで充分」
「……あんた、馬鹿だよ」
「ルックに関しては認めざるを得ないな。生まれてこのかた、ルック方面以外でそんな評価を頂戴したことがない。――そこで再度、確認だけれど」
 確認、になっている。ルックへ躊躇させる暇をも与えないつもりだ。アスフェルは言葉一つでルックの羞恥心や高慢さを庇う。
 いやに深刻さを含めない黒、アスフェルはルックの視線を捉えた。
「一緒に暮らそう」
「……」
「仕方ないね、って言えばいい」
「……」
「あんたもたいがい馬鹿なんだから、仕方ない、って。ルックは何もしていないだろう。何もしなくて、考えすらしなくていいんだよ。俺が俺のやりたいことを実行に移すだけなんだ。ルックに隠しておくのは嫌だから事前にお伺いを立てているけれど」
「……」
 アスフェルは矢継ぎ早に述べきって、ウインクさえもぽいと放つ。
 こう見えて必死なのだ。ルックが許可を出さない限り、いくらアスフェルと言えど不安に駆られてどうしようもない。父の期待、周囲の選別、そしてアスフェル自身の己を律する志、その三方よりかかる圧力をはね返さねばならないのである。世間体を気にする臆病な気持ちだって正直なところルックの比ではないくらい大きい。それらすべてを超越してルックひとりを得ようとするのだ。苦痛の伴わないわけがない。
 ルックはそこまで理解しているからこそ答えに窮してくれている。その優しさだけで、実は充分。
「……もういい」
 ルックはゆるく首を振った。もってアスフェルの際限なく用意してくる言い訳を封じてしまう。もう言い訳はいらない。もう、そんな悲しそうな目をしなくていい。
 ――もう逃げないよ、と言外に告げる。
「ル、ック?」
「僕も。あんたになら」
 さすがにアスフェルを直視できない。アスフェルへ旋毛ばかりを向けて、深く首を前傾させる。毛布へ鼻先を潜らせる。
 さら、と金茶の髪がルックのうなじを滑り落ちた。
「ル……」
「アスフェル、あんたのためなら、変な気位は捨てることにする」
 静かにアスフェルの背へ回る腕。ひんやりした感触でアスフェルへ縋りつく手のひらへ、珍しく、抱きつくように力がこもる。
 びりっと電流を流された心地にアスフェルの全身が強張った。高らかな波がこっちの心音をもぎ取ったのだ。ルックの薄い胸板は、皮膜一枚めくった奥で激しく鳴り響く鼓動のわけをアスフェルへ伝導させてくる。足の先まで冷たいルックの密着している冷えた太股、ゆっくり熱が灯りゆくのは、まるで鬼灯の熟れるよう。
「アスフェル」
 吐息だけの囁き。ルックはさらに、アスフェルの背中へ爪を立てる。
 ……怖いのだろう。ルックから孤高のプライドを剥げば身を守るものがなくなってしまう。本当は打たれ弱いから。
「アスフェル……」
 ほら、その先がなかなか出てこない。アスフェルの胸までとうに届いていても、まだ聴覚を揺さぶってはくれない。
 アスフェルは、場を誤魔化すようにルックの髪をかき混ぜた。
「そろそろ寝ようか。明日も早いから」
「……」
「起こしてあげるよ。泊まっていくだろう? グレミオには出かける前に二人分の朝食を作っておいてもらってる」
「……」
「ルック」
「……」
 本格的に困っているらしい。または、素直になれない自分を嫌悪しているのかもしれない。辛い思いをさせないと断言したものの、アスフェルは、早速ルックを困らせている。
 ルックは見栄を張っただけの嘘など一切吐きたがらないから、本音を毒舌に紛れさせることができなければこうして静かに落ち込んでしまうのだ。とことん天邪鬼で、そのくせ自らの評価は非常に控えめ。妙なるアンバランスさがアスフェルの胸をわし掴む。
「おやすみ」
 話を切り上げようと、アスフェルは穏やかに微笑んだ。頬の辺りへちょっと切なさが介入するも、瞬きに乗せてそうっと排除。ルックは頭を伏せたまま、ぎゅっと、アスフェルの皮膚を摘んでは離す。
「……待って」
 ルックの咽喉から焦った声音。
「待って。言うから、ちゃんと」
「ルック?」
「聞いたらすぐに寝て」
「ん」
「明日以降、今のことは絶対ぶり返さないって約束して」
「約束しよう」
「目も口もしっかり閉じて」
「ああ」
 よほどの決意を固めたらしい。どこか凛とした口調のルックが、おもむろに駒を進め出す。あえて抗せず、アスフェルは求められるままに瞳を閉ざした。
 やはりルックはこうでないと。ゆるく苦笑する傍らで、背に触れる指先が未だ落ち着きなくさまよっているのへルックの乱れを垣間見る。
 顔の前へしつこくひらひらと手をかざし、アスフェルが薄目を開けていないか、確認してでもいるのだろう。サイドボードで室内唯一の光源をもたらすランプの丸が赤く瞼へ透けては暗む。うんと子供の頃に覚えがある、黒とその奥へ広がる光を彷彿とさせる情景だ。懐かしい。
 何考えてんの、とルックは小さくぼやいたものの、すぐ緊張を上塗りさせた。
「アスフェル」
 ルックが震える舌の真ん中、やや硬質に名を乗せる。
「……あんたと一緒に、暮らしたいけど」
 蜂蜜の外側を酸で覆ったらこんな音色になるのだろうか。または、素直な本心の外側に毬。
「それって、一緒に暮らすの、って、……」
 ルックはさらに声量を絞る。重なりあった手のひら同士が立てるのに近い、さらさらとした透明な様で、ルックの告白は小さく続く。
「――、みたいじゃない」
 ルックが発すにはあまりにも縁遠いと思い込んでいた言葉、ぼそ、と耳元を撫でて鼓膜を通って耳管にほてりを伴い溜まる。
「アスフェル! 目、瞑ってって……!」
 桜に染まるルックを認めるのと手加減ひとつなくその全身を抱きすくめるのと、喜びが胸に突き抜けるのと。いっしょくたになった頭でアスフェルが最後に知覚できたのは、みっともなく涙腺がゆるみそうになるのを抑えたところくらいまでで。だからもちろん、ルックが目許を拭ったのにも後から思い返すまで気づかずに。
 ――結婚、しよう。
 ルックの言質をそのまま借用、最大の告白に全霊を込めるや、今まで浮かんだことのないほど綺麗な笑顔がアスフェルを伸して溢れ出た。


自分的に、この日付で上げることに心底うんざりしたネタでした。(←のに書いてしまった)
20070520