キキョウがうとうととまどろんでいた。
いつもなら顔に落書きのひとつも施してやるところだが、生憎今日はこれから仕事で忙しい。ちっ、と思わず舌打ちが漏れる。
外は木枯らし、落ち葉の乱舞。さすがにTシャツ一枚着たきりで転寝する弟を多少は気づかってみたりなんかするのが兄ちゃんというものであろう。手近にあったバスタオルを引っ張り、肩かお腹かどちらに軍配をあげようかとどちらも覆えぬ大きさにほんのちょこっと思案する。……ま、適当にばさ、でいいだろう。
と、テーブルに突っ伏してすやすや眠っているその頭の下へ、何やら紙片の敷かれているのが目についた。
気になるものはとりあえず確認すべし。すすっと紙切れを抜き取ってみる。A4サイズの紙を二センチ刻みに横へ細く裂いていったようなサイズだ。学校で手渡されたものだろう。
数学、九十四点。理科、八十九点。先日受けたらしい実力テストの結果である。こいつ、かなり成績優秀じゃないか? そういえば尋ねたこともなかったが、高校はどこを受験するつもりなのだろう。
さらに紙片へ目を通す。社会、七十点。まあまあだ。英語、六十八点。雲行きが怪しくなってきた。ここまでで四科計三百点ちょい。受験校によっては合格が苦しくなるラインである。
「…ん」
キキョウが眉根を少しよじった。
瞬間、隣の部屋まで退却していた己の脚力に感嘆したい。キキョウがそれきりまたぴくりとも動かなくなって、より深い眠りに就いたらしいことが聞こえる寝息から察せられるまで、隣の部屋で息を殺してさえもいた。ちなみに、隠密行動なら忍びに勝ると自負はしている。
隣の部屋は和室で、すべての窓に障子が引かれていたため薄暗かった。見えにくいところでものを見るのも実は得意だ。最後の一科、国語の欄を凝らし見る。
三十二点。
……さんじゅうにてん!?
間違いない。三十二だ。数学との点差およそ六十点だ。無茶苦茶だ。軽く別人の答案と思った方がいい。あり得ない。
だがキキョウにとってはごく普通にあり得ることをどこかで納得してもいた。
あいつはいわゆる行間が読めない。字面そのものしか捉えることができない。そして、四十字程度で理由を述べよとかそういう問題には壊滅的に弱い。
なぜならあいつは、アスフェルに会うまで言葉を話せなかったからだ。
正確には、アスフェルが話せるようになってから、である。アスフェルが片言で話せるようになった時、キキョウもようやくまともに口を利き始めた。それまでキキョウはあとかうんとか言うだけで、主に言語を使わず表情やリアクションによるコミュニケーションを取っていた。
兄貴が悪いだなんて言わないで欲しい。実は血が繋がっているわけではない。いや、繋がってはいるがやや薄い。兄弟はどちらもじいちゃんの遠戚で、親が死ぬか親が失踪するかしてじいちゃんに引き取ってもらったのだ。
さらにキキョウは、両親の失踪時に川へ捨てられたか落とされたかしたらしい。一週間生死の境をさまよっている。だから、それまでにどれほどの仕打ちを受けてきたのかは誰にも想像できやしない。
そして、もしかしたら兄弟は本当の兄弟かもしれないという検査結果も実はある。じいちゃんがDNA鑑定を自分でしたのだ。いくらじいちゃんがすごいとはいえやはり一応素人だから、結果が真かは断定できない。とりあえず戸籍上は兄弟で、戸籍上は本来なら兄弟ではなかったはずで、しかし現実としては本当に兄弟だったかもしれないというのがミステリアスながら事実なのである。
話が逸れた。キキョウの点数だ。
どこを受験するのか知らないが、国語がこうまで足を引っ張る以上、どうにか対策を講じずばなるまい。だが国語の点数を向上させることは前述の通りかなり厳しい。ならば残りの教科、特に暗記の方法さえ与えてやれば何とかなりそうな社会に賭けるしかないだろう。英語はきっと長文の内容把握で引っかかっているのだろうから国語同様諦めるしかない。
ここで携帯がうるさくブルブル震えなかったら軽く指南書でも認めて兜の形に折った上でキキョウの頭へ添えておいてやるところだったが、残念なことに時間がなかった。紙片をキキョウの鼻先へ返し、ついでに寝顔を確かめる。
幸せそうな顔をしていればいいのだが。
兄の憂慮はぐっすり眠るキキョウに少し届いたらしい。ほんのり笑みが口許へ刷かれ、……それに、たまらなく、安堵した。