希い





アスフェルは足を踏み入れた。
危険です、と従者が追えども耳すら貸さない。しなやかに伸ばす君子の背、額にこぼれかかる黒髪もそのままに、彼は光を纏いて歩む。

病棟は、畏敬の念に占められた。

あるものは顔が浮腫み、またあるものは身を醜い錆色に蝕まれ。薔薇の花より出づる毒のもたらす惨状は白く抜かれた室内を白く濁った穢れで淀み腐らせている。薬も魔法もまったく効かず、待つのはひたすら憤死のみ。手足の先が痺れるくらいの軽症なら清らかな水で濯ぎ落とすこともできたが、毒の回りきっている兵らにはそれも焼け石に水でしかない。
アスフェルは部屋の中央に立った。
患者の顔をひとり残らずしかと見る。一万に及ぶ己が軍勢の、アスフェルはほとんど全てを記憶している。氏名、所属、解放軍に加わる動機、そして出身地、さらには家族構成。顔を見ればだいたいすぐに思い出せるから、ここへ立つのはひたすら苦行でしかなかった。最も多いのはやはり歩兵だ。右端の男は妻子がコウアンに、その隣は老母がこの城に。……彼らは皆、家族を置いて死へ向かう。
城攻めに際し彼らを前線へと指示したのはアスフェルだ。そして退却の判断を下すのが遅かったのもアスフェルである。すなわち、これは偏に己の采配ミスに他ならない。実際にはそこに軍師の薦めが大きく関与するし、敵方の新兵器に対する情報収集の遅滞も加わった。だが、アスフェルにとってそれは己にかかる責任を擦りつける対象と見なされない。弓兵による威嚇をもう五分長く続ければ。または、もう一秒早く撤退を命令すれば。少なくともこの内一人か二人は多く助かったかもしれないのだ。
詮無いことをいつまでも心にくゆらせる。そうしている間にも兵らは次々起き上がり、アスフェルへ敬礼を取ろうとしている。
「いい。体に障る、……」
アスフェルは軽く頭を振ることで、半死者の思いごと遮った。――遮ろうとした。できなかったのは、まだ年若き兵士と目が合ったからである。最前線に出した部隊の、ごく少数の生き残りであるその少年は、顔が無残に爛れ腐り落ちていた。皮膚はいたるところ黒ずんでいる。瞼は膨れて半分ほどしか開かないし、下唇も溶けかけだ。シーツが膿で黄緑色と汚い茶色に変色していた。
なのに、彼は囁いたのだ。

次こそは、と。

がっと、心臓を鷲掴みにされた気がした。
今のアスフェルにできることは何か。己が失態を嘆くことか。死にゆく者を憐れむことか。
――ここにいる兵は誰も、アスフェルのせいだなんてちっとも思っていないのに?
「皆……」
アスフェルは呟いた。少年が首肯したように思えた。実際は少年の首などぶくぶくに腫れ上がってしまって、頷くことはおろか声を出すこともできなかったのだが。
それでもアスフェルには分かる。患者は誰も、アスフェルの指揮が悪いと糾弾してこない。アスフェルは他のどの将よりも素早く撤退を指示してくれたはずだ、だから皆はアスフェルのせいで死ぬのではない、この戦争のせいでこそ死ぬのである。そう思ってくれている。アスフェルを信じてくれている。
ゆえになおさら、アスフェルは苦しく思うのだ。
「……すまない」
涙が出る。患者の動揺するのが分かる。自分らのために泣かないで、そう笑おうとしてくれるのが分かる。どうにか零すまいと目の縁に必死で留めて、しかし、指の朽ちた老兵が一心に手を差し伸ばすのを見たら、やはりぼろりと頬へ伝った。
アスフェルは大きく息を吸う。兵らが焦りに息を飲む。患者の体内に巣食う毒気が漏れ出ているから病棟は隔離され立入禁止になっていることを皆ちゃんと知っている。頬の涙を手の甲でぐいと拭い去って、アスフェルは皆を見渡した。
「約束する。――次は、勝つ」
声に決意と力を込める。意図して強い空気を湛える。兵らは容易く感じ取れたろう、アスフェルの放つ、覇者の気を。
動ける兵は皆揃って指先を伸ばし目の上に掲げた。敬礼、としわがれた合図がどこからか鳴る。部隊長だ。ああ、殿になったのか。他の兵士をよく守ってくれた。
……続きは俺が、引き受けよう。
「勝って帝国を打ち倒し、必ずや安寧の世を生み出すことを。皆に、誓う」
アスフェルの声音が毒を薄めて輝いた。この時ばかりは兵らの痛みもいくらか和らぐようだった。アスフェル様、といくつも名を呼ばれるのにつられ、アスフェルはひとりずつ眼差しを交わす。
「薬師を求める。だから命令だ」
兵らがさっと背筋を正す。もちろんそうしようと足掻いただけで、できなかった者がはるかに多い。
「命ず。俺が帰るまで、生きろ」
無茶なことを言う、と部隊長が面映げな顔をした。無茶でもアスフェルの命なら聞かずを得まい。今なら生を信じられそうな自分に彼は眦を下げたのだろう。
アスフェルの眼には希望が宿る。不確かな未来を己が願う方へ変えていこうとする力、今ならそれが、兵たちにも乗り移って感じられるのだ。
ついに瞼を下ろしてしまった先の少年兵へ、アスフェルは臆すことなく歩み寄り、その手を取って胸に握った。強く握ると皮膚が破けてしまうから、まるで紙風船を包み込むようにそっと手のひらで掬い上げる。
「大丈夫」
少年は笑った。口端の筋肉が奇妙に皺寄った。アスフェルの涙を拭おうとしてか、指がぴくりとかすかに動いた。

そして、それが最後であった。


グロいのは承知で、どうしても書きたかった。
20060913