瞼を開ければ、黒曜が上に待ち構えていた。
「お早う」
「…ア、アス?」
「ああ」
彼の太股へ頭を預けきっていたらしい。腹にはタオルケットが掛けられ、畳の草香と相まって、キキョウの鼻腔を何とも言えない穏やかな郷愁へ誘い込む。残暑尾を引く秋の風。みんと、弱々しい蝉の音がふいに鳴る。瞬きすれば固い目やにを目頭へ感じて、思わず擦ろうと手を上げる前、左手が何かにつながれているのへキキョウはやっと気がついた。同じ温度が首の裏からもじわりと慎重に伝わっている。
自分の部屋。まだ昼間。上にアスフェル、覗き込む柔らかい微笑。
半覚醒の瞳をくるりと一周させることで必要最小限の情報はどうにか入手したものの、同時に驚きへ彩られたからしばらく適応できそうにない。なぜアスフェルが枕元へいてくれるのか。どうやって膝枕をしてくれたのか。あるいは、いつから手がつながれていたのかさえも、キキョウにはとんと見当がつかないのである。混乱による軽い眩暈でキキョウは片目をきゅっと顰めた。
「びっくりさせた? ごめんね。合鍵で勝手に入ったよ」
「…あいかぎ」
「ちょうど一時間ほど前かな」
アスフェルが合鍵を持っていることすら思い至らなかった。
キキョウはぼんやりとアスフェルを見上げる。アスフェルがキキョウの部屋へいることにも驚いたが、それよりもキキョウはなぜいるのかをもっと知りたい。昼間は高校のはずなのに。
「…あ、祝日」
高校は休みだ。ゆるゆると頭脳が稼動し始めた。敬老の日。敬老は老人のことで、キキョウの祖父はずっと前に亡くなってしまった。そう、だから、思い出すと悲しくなって、テド兄は仕事に出かけてしまって、じいちゃんの部屋へちょろっと入って座禅を組んだりしてみたのだけど、やっぱりじいちゃんがいなくて寂しい。
それでキキョウは自室へ戻り、呆然たる夢現の状態にあったのだった。
空いた右手をアスフェルの頬へひょいと遣る。アスフェルの頬が好き。温かい。言うと怒るだろうけど、まだ生まれたての子供の匂いが残ってる。指の甲でアスフェルの頬をぷにっと押したらそこがえくぼに見えてきた。かわいい。まるで年上の弟みたい。ね、何でここにいてくれてるの。
「ああ、どうして俺がここにいるのか、気になるんだろう?」
アスフェルには伝わってしまう。
「…うん」
「何となく、キキョウが独りでいるような気がして」
「…え」
キキョウの心臓が思いきり跳ねた。
「疲れている様子だったから、もう少し寝かせておこうと思ったんだけれどね。起こしてしまった」
「…アス」
「こうやって」
アスフェルがキキョウの前髪を後頭部へと掻きあげた。剥き出しになる額へ、覚えのある何か。視界が翳り、子供らしいほわほわの匂いが鼻を掠めて。
ちゅ、と、慈しみが授けられる。
「こうやったら、さすがに起きてしまったね」
「…うん」
「よく眠れるようおまじないをかけたつもりだったんだ。効かなかったな」
「…うん」
「せっかくだから、何か甘いものを食べに行こうか」
「…んっと」
「もしかして、キキョウが何か作ってくれるのか?」
「…うん、作りたい」
夢の中、キキョウはあまり寂しくなかった。独りではなかった。じいちゃんの笑顔は誰よりもキキョウこそが鮮明に記憶しているし、その上、キキョウには何人か大事に思う人がいる。
仰向けていた身を丸め、アスフェルの腹へ潜るようにして抱きついた。高校の制服のベルト部分が鼻に当たる。制服? もしかして高校に行かなければならなかった?
キキョウの左手が竦んだのを、アスフェルはすぐさま察してくれた。
「…わたし、も」
キキョウはこっそり呟いた。キキョウの方が大切だから、とアスフェルが笑ったのへ、できる限りの謝礼を込めたつもりであった。伝わっていることは間違いがない。アスフェルが微笑んだから。
クッキー。うどん。あんみつ。巻き寿司。とりとめもなく作りたいメニューを脳裏に並べれば、決める端からうとうとと眠気が襲い来る。
かなぶんが窓にぶつかる音がした。