梅雨時の空は、眼前でだらしなくにやけた表情を必死に引き締めようと尽力している恋人の、闇を深める瞳よりさらに気まぐれな変化を見せる。
ルックはうんざり曇天を見上げた。先ほどまではじゅうじゅうと広大な体育館を蒸し焼きにしていた日照が、今やずんぐりした薄灰色の雲に覆われて、見る間に地面へ無数の黒い染みを穿つ。
水無月中旬、夕方六時。
ルックの所属する吹奏楽部より一時間も長く練習を続けた男子バスケットボール部、その帰宅時間を計ったように降り出した雨粒を忌々しげに睨みつけて、ルックはついでに傍らのアスフェルへもどきつい眼差しをずがんと向けた。
「あんたがもたもたしてるから」
「ルック、さすがに何の捻りもない典型的な八つ当たりらしい八つ当たりを敢行されると、いくら俺でもちょっとは驚いてしまうかな」
「つい十一分前の事実を事実として受け止められないなんて無様にも程があるね」
「事実をどう解釈するかは個々の主観的感情に大きく依拠するものだろう」
「僕が何でも悪い方向へ解釈しがちだって言いたいの?」
「平たく言うとこうだ。――俺に関する事物は須らく贔屓目で見て欲しい」
「……何それ」
アスフェルは飄々とした表情である。さらりとルックに微笑みかけると、ネクタイを緩めた制服の、それでも第二ボタンまできちんと留めた襟元に指を引っかけ寛げた。
首筋に汗。漆黒の髪が耳の後ろで濡れているのも見える。ルックは思わず目線を外し、遣る瀬無く雨を睨めつける。
今週末の地区予選に備え、アスフェルら男バス部は毎日遅くまで練習に励んでいる。ルックとしては、天邪鬼ゆえ態度ですら示せないものの、下校を一緒にと望むほどには好意を向けている恋人を単語帳片手にただ漫然と待つしかない。その「事実」からして良い方へ解釈するにはあまりにも羞恥に過ぎるではないか。熱くなる頬を拡散させるには強いて怒ってみるくらいしか対処なく、さらには練習上がりのアスフェルときたらどうしてこんなに、――もう見上げるまい。
とにかくルックはさっきまで体育館の隅に座り込んでバスケ部の練習風景をぼうっと見ていたのであった。熱のこもる体育館内、部員の流す汗によって匂いと湿気のどんどん増す中を、理由はどうあれ小一時間もじっと我慢していたのである。多少は不平も漏れようものだ。
ルックはぷうと頬をふくらます。前髪をくしゃり掻きあげたアスフェルは蕩けそうな顔で朗らかに笑んだ。
「ルック、かわいい」
「学校でそういう蛆の湧くようなこと言わないでって」
「誰もいないよ」
「……ッ」
アスフェルは下駄箱をぐるりと示す。昇降口には確かに人けがない。しとしと降りかかる雨で埃のいくぶん収まるそこは、いつもより閑散と静まっていた。
これくらいの雨なら数十分も待てば止むし、そうでなくとも家までは走ればそう濡れずにすむ程度の距離である。だがルックが濡れるのを嫌うアスフェルは雨宿りをすると言い張った。ルックが昨年の冬に風邪でぶっ倒れたことをアスフェルは今でも気に病んでいるらしい。そんなわけで、ふたりは不毛にもかれこれ十分この屋根の下にいるのである。
ルックはアスフェルの足元を睨みつける。少しでも気を抜くと、このへらへらした悪徳代官のような男が何をしてくるかわかりやしない。
公私を厳格なまでに分別したがるルックと、何時如何なる時でも優先順位の覆らないアスフェルとでは、何をもって良となすかの判断基準がそもそも大きくずれるのだ。互いに同じものを見てもその解釈は著しく異なり、だがどこか根幹で他になく符合しているのを感じることがある。
彼のどこが好きかと問われればきっとその一点に尽きるのだと、やたら思考を超越させて気づけば視界が彼に覆われ、口元を掠め取られる前にできた抵抗といえば瞬きひとつくらいの些細なものだった。
「……ア、アスフェル!」
我に返って見上げれば、アスフェルは毅然と正門の向こうを見据えている。裸眼では見えぬ気配を嗅ぎ取ったのか、その顔がぱっと明るくなるのをルックは思わず凝視した。すっと通る鼻梁、花弁のごとく華やかに形作られた唇、顎から滑らかな直角を描いて喉仏までを目線で辿り、さっきの練習で擦ったか何かしたらしい、首元へ赤く残る跡を見る。
「グレミオかな。――ルック? どうした?」
見とれていただなんて絶対言わない。アスフェルの後ろを指差して、さもずっとそこを見ていたかのように、雲の切れ間へ振り向ける。アスフェルは首を後ろへ回し、耳の裏から鎖骨へ繋がるラインが綺麗に現れた。どうしてあんたは、何をやっても。