深夜、というより、ひょっとすると早朝に近いのかもしれない。
セラス湖城に構えた王都解放軍が首領、ファレナ女王国王子を冠するカノンアシュリイは、できるだけ音を立てないように浴場の扉を横へ引いた。もわっと湯気が流れ出る。思わず瞼を下ろしてしまう。
からから。枠が鳴った。
からからから、からからからんと無人の浴場へ四方八方反響したため思わぬ大きな音になる。気づかれる? 後ろへ連れてきた影武者と二人して、同じ角度に身を反らしては体の動きを凍らせた。
「――静かに開けろってカノン!」
今二人ともまったくおんなじことをした、と、カノンはぼんやり考える。二人の後ろからもしも誰かが覗いていたら、ちょうど影絵のように見えて何だかおもしろかったのに。
そんなことを考えていたものだから影武者の方が若干立ち直りが早かったのは仕方ない。人の気配が外にないのを確認してからぺしんとカノンの後頭部脇、ごく控えめな音で叩いて、その手をぬるりと握り締めながら小さく小さく暴言を吐く。
「誰か来たらどーすんだ」
「だって音が勝手に鳴っちゃうんだもん! ロイもやっ」
「その声がまたデカいんだっつうの! 静かにしろっつってんのがわかんねェのかこの」
「ロイ! しぃーッッ」
何か物音が聞こえた気がした。カノンはとっさに後ろの口を黙らせる。右手は扉の取っ手、左手は汚れたシーツごとロイの手首を掴んでいたから、咄嗟に唇で塞いでしまったのは他に選択肢がなかったせいだ。だけどロイは甘ったるくて、二人の全身にぬめぬめと付くクリームの味が溶け合って、カノンは一瞬、ほんの一瞬、本来の目的を失念しかけた。
「……カノン」
同じ物音がもう一回。こーんと、大浴場の天井に溜まった大粒の水滴が木桶へ落ちた音だと気づいた。いやに立体的な音だ。耳に冷や水をかけられるほど。
「……先、洗おっか、体」
「先っつうか今日は洗い流してオシマイだけどな」
「えっ嘘」
「明日起きれんのかよオレもカノンも」
「リオンが起こしてくれるもん」
「いー加減自分でしゃんと起き――オイ静かに開けろっつってんだろボケ!」
がらがらがら。カノンは引き戸を盛大な音で開けてしまう。中へ入って扉を閉めればある程度遮音されるのだから、こんなところでぐだぐだと声を潜めて喋りたくるよりずっと建設的だと判断してのことである。
ロイがごすんとカノンの背中を小突いてきたので、カノンは頬を膨らませた。
「だって、どう考えても、開閉音より僕たちの声が大きいじゃない?」
「誰のせーだ!」
浴場へ飛び込んでぴしゃんと引き戸を閉める際、またしてもロイがカノンの背中を小突いてきたのはクリームであっけなく滑ったらしい。ロイは忌々しげに手元を見やり、下品に舌を高く鳴らす。だけどそれは優しいくらいにくぐもって浴場へ反響した。
「そもそもな、オレはこーやって食いモンをソマツにするやつはキライなんだぜ」
滑った拳を責任転嫁するらしい。ロイが自身の爪先までをまじまじと見つつ低くぼやいた。ロイの体はどこもかしこも生クリームの油分でてらてらになっている。脇腹やへそから腰、臀部、胸のあたりなど生クリームが念入りに白く押し伸ばされていて、腰で揺れる長い髪先もクリームまみれになっていた。無論、それを為したカノンも、ロイと触れ合ったところが特に、べとべととねとついている。
ロイは粘る両手をべっとり貼り合わせた。
「ヒサン。キモチワリィ」
その手を引いてシャワーの前へ連れてゆき、椅子に座らせて、カノンはシャワーの栓をひねる。最初は冷たい水が出るのでロイの体から遠ざけた後、ロイの右隣に立ち、――こういうところ、我ながら気が利いていると思うのだけど。
「だっておいしそうだったんだもん」
「ケーキはケーキのまんまで食うからうまいんだろ。オレに塗ってうまかったか? あァ?」
「うん。とぉっても」
「……オレはちっともうまくなかった。もったいねェ」
適温になったシャワーのお湯をそっと肩からかけてやってもロイは文句を零し続けた。片手に固形石鹸を取る。クリームで石鹸が掴みにくい。必死になって泡立てる。
「――あ」
「ヘっタクソ」
ぽんとカノンの手から飛び出て、座るロイの太股の間へ石鹸はつるんと滑り込んだ。捕まえようとしてもロイの太股はクリームがそのまま残っている。なかなか石鹸を掴めない。ロイが呆れた顔で笑ってカノンの手を押しのけた。
「石鹸をこう、つかむんでなく包んで、肌の広いとこにこーやってかぶせてスライドさして」
「泡立ったー!」
ロイは器用に石鹸を使った。腹のあたりに泡をこさえて泡でクリームを洗い落とす。カノンはシャワーを床へ置いてしまい、両手でロイの背中や首を手伝った。ぬめぬめしたクリームが石鹸に溶けてきゅっと肌の引っかかる感触へ戻る。
「でも、なんっか泡立ちが悪いよね」
「汚れまくってるからだっつうの」
「髪の毛洗ったげる」
「自分を洗えよ!」