タオルで頭を拭くアスフェルを、ルックはしげしげと見ていた。
「面白いか? 俺の髪」
「ううん」
風呂上がりである。ようやく九月に入ったとはいえ気候はまだ夏そのものだから暑い。風呂の後など暑くて暑くて仕方ない。特に夜間は昼以上に蒸し暑く、がしがしとワイルドにタオルで拭くのが水滴か汗か判然としかねる熱帯夜である。宿屋の外で鳴く虫たちの不協和音も暑苦しげだ。
ううんと否定したくせに、ルックは変わらずアスフェルを見つめ続けている。視線が刺さりそうなほど。気まずいとまでは言わないが、と内心に思い、ついでに思いついたこともあって、アスフェルはちょっと手を止めた。
「まさかとは思いつつ、一応義理や人情や期待を踏まえて尋ねるけれど」
「何その前置き」
ルックがかわいく小首を傾げる。かわいく、見えるのはアスフェルにだけかもしれないが。かわいいなと緩む口許を誤魔化すために、アスフェルはタオルで前髪を掻きむしって水気を執拗に拭き取った。
十五年越しの再会を先月果たし、どさくさに紛れて独占したルックと二人で全国行脚の開始線。客観的には最も盛り上がる時期である。何がというと、熱愛が。
だからアスフェルは髪を拭きながらそれにふさわしい質問をする。無論、冗談だ。
「ルック。俺の体がそんなに興味深いか?」
宿屋の浴衣一枚を軽く羽織るだけのルックは、きょとんとアスフェルの顔を見上げた。宿屋はツインで、ルックは左側のベッドの真ん中にべたりと座り込んでいる。アスフェルは二つのベッドの残念なことに広い隙間へ立って髪を拭いていた。
ベッドの間が広いと嬉しくない。なぜって隣のベッドへ移りにくいではないか。
「――」
ルックが何か短く発する。
ベッドへ移りにくいのは逆に逃げにくいということでもある。今夜はこれからどう進めようか。もし、腰へ巻いているタオルが今ずり落ちたら、ルックはどんな顔をするだろう。
などともやもや考えていたせいで、アスフェルはルックの返事をしっかり聞いていなかった。
「――ていい?」
「ああ、どうせ大したリアクションもなく、とっとと浴衣を着ろとか言うだけだろうけれど……って、ルック、何?」
「だから興味があるんだってば」
「何に」
「あんたのソレ」
「ふ、へっ」
アスフェルはいかにも間抜けな声で呻いた。髪を擦る手もすっかり止まった。人生初だ。こんなに動揺するなんて。
「変な返事」
だが肯定と受け取ったらしい。右半身がスムーズに動かせないため左手と左の腿でずりずりとベッドを移動し、ルックは、アスフェルのすぐ傍らまで寄ってくる。白い指がついとアスフェルへ伸ばされる。
そして、触られた。
「ルッッッ」
爪の伸びた人差し指で柔らかくなぞられる。羽毛を摘まむように。次いでやわやわ捏ねられる。
「ちょっと出っ張ってる?」
「何をし」
「そんなこともないかな。色だけ? 不思議」
かつ、と爪が立てられて。細かく弱く、引っかかれる。
「ルック!!」
アスフェルはついにルックの両肩を自分から思いきり引き剥がした。髪を拭いていたはずのタオルは足の甲へ乗っていた、のもしばらく経ってから気づいたことだ。ルックが慌てて左手を背中の後ろへつっかえ棒にして、半ば突き飛ばされた体勢をどうにか倒れないよう維持する。アスフェルは翡翠色の瞳を怖いくらい真剣に見た。
「何をしたいんだ」
ルックに触れられた部分がじくじくと疼く。熱い。
「言ったじゃない」
「聞いていなかった」
「あんた、聞いてなかったの? 自分で言っといて?」
不満そうにルックはアスフェルを糾弾し、アスフェルはぐうと言葉に詰まる。あらぬことを考えていたとはさすがに白状したくない。けれどルックの行動が。
「……何で、俺の……俺の、ち……ち、乳首、を触るんだ?」
言ってアスフェルは左右に激しく頭を振った。人生初だ。こんな単語を言わされるなんて。ルックの方を掴む両手へぎゅっと力がこもってしまい、耳や頬が羞恥に火照る。思わず瞼をきつく閉じた。これもまた人生初の体験である。
ルックはけろりとして言った。
「だから、気になるから触っていいかって聞いたの」
「気になるって」
「そこにあるじゃない。それ」
示される目線を辿り、アスフェルは自分の右胸を見る。乳首と乳輪。いつもより少し尖り気味なのは不可抗力だ。ルックはそれよりやや下を指している。アスフェルも視線を下へずらす。
乳輪の端に、ぽつんと黒いものがあった。
「……ほ、ほくろ、か?」
アスフェルは茫然とそれを見る。
「メラノサイトの密度が、何だっけ、昔書物で読んだんだけど。僕そんなの体にひとつもないから」
それで気になっていたらしい。相変わらず探究心が旺盛だ。
アスフェルはほっと、涙ぐみそうに大きく安堵の息を吐いた。
十五年におよぶルックとの離別は、焦がれる想いをただ募らせるのみではなかった。以前の関係に戻ることすらできないかもしれない不安は常にあり、ルックの人生を半分背負い、またアスフェルの人生を半分背負わせる覚悟をルックに強いるであろうことも怖かった。記憶が美化され、想いが形骸化していく心地を味わった日さえある。十五年の歳月はあまりにも長すぎたのだ。
ゆえに今のアスフェルは、ずいぶん短くなった髪が変わらず猫毛だったぐらいで安心したように、昔のルックらしいルックを垣間見ただけで安堵する。もはや癖の一種と呼んでいい。しばらく抜けないだろうから。
「そういえば、ルックの体にはほくろがないな」
アスフェルは、不自然なルックの体勢を、首の後ろへ腕を回して引き戻した。二人の距離が近くなる。
「うん。――知ってるの?」
「隅々までじっくり見たからね」
「いつ、って、……ア、アスフェルっ」
「ルック、今日もじっくり観察し」
「馬鹿!」
ルックの上体を引き寄せる。夏でも冷え性なルックの鼻先は子猫のようにひんやりしている。ちゅ、と音立てて唇を授ければ、ルックは途端に大人しくなった。
アスフェルは両腕で抱きしめる。耳元へ小さく囁きを落とす。
ルックは拒否をしなかった。