トロイは呆然と目を見開いた。そして次にはその目を眇めた。
玄関からリビングまで壁が真っ黒になっている。こうもりと魔女の形に切り抜かれたセロハンがびっしり貼り付けてあるのだ。リビングに至っては天井も床も真っ黒で、黒を切り裂くようにオレンジ色のモールが華やかにぶら下げられている。床には等間隔にオレンジ色の照明具。手のひらサイズのかぼちゃの中で小さな電球が発光している。かぼちゃはよく見ればプラスチック製で目と口らしき三角の穴が開いていた。
「…おかえりなさい」
リビングのテーブルにはお菓子が山ほど盛られていた。色とりどりの包み紙が暗めの照明で宝石のように瞬いて見える。宝石箱に収まるどころか、とてもじゃないが食べ切れそうにない量だ。
その真ん中にちょこんと座り、黒い三角帽子、黒いマント、首元に黒いリボンタイを纏うキキョウが、あどけない笑みで先端に星の付いたステッキをくるくる振っていた。
「…トロイさん?」
黒いマントの下はいつものトレーナーとハーフパンツを着ているらしいが、マントから覗くのはつるんとした膝と素足だけ。マントの薄いサテン生地がキキョウの肩や腰のラインを丁寧になぞっている。
トロイは鞄を持ったまま木偶のように突っ立っていた。我に返ってネクタイを緩め、それから鞄をどこに置こうか思案する。何せリビングはセロハンの貼られてない場所がないのだ。
「…トロイ、さん?」
キキョウが不安げに首を傾げた。トロイが帰宅後一言も発していないせいである。鞄をこうもりの羽に乗せつつ今日はハロウィンだったかとようやく思い付き、かぼちゃがジャック・オ・ランタンであることとトリックオアトリートの遊びをゆるゆる脳に呼び覚ましてから、トロイは改めて恋人のキキョウに向き直った。
「……テーブルに乗るとは、行儀が悪い」
さんざん待たせて第一声がこれである。失敗した、とはトロイでなくともすぐ気付こう。だがストレートに賛辞を述べられるほど素直にはなれなかったのだ。男は黙って背中で示す、が至上の美徳だと思っている。
「…ごめんなさい」
叱られた子犬みたいにキキョウはしゅんと項垂れた。お菓子を撒き散らしながらずりずりテーブルを降りようとする。
「待ちなさい、散らかる」
「…あ……はい」
「戻るな、落ち――」
「…ひゃっ」
バランスを崩し、背中から落ちかけたキキョウの腕をトロイは寸でのところで掴んだ。ぐいと胸へ引き寄せる。傘にぶつかる雹に似た、菓子類の床にばらばら散乱する音が響いて、ついでにキキョウがよろめきながら爪先を床に付けて立つ。足の踏み場がなくなってうろたえるキキョウを抱き上げると、トロイはそのまま一切の手加減なく抱きすくめた。
だが程なく腕を緩める。二人の距離を阻もうとする三角帽子の広い鍔へ、思わず苦笑が漏れてしまう。
「…トロイさん……ごめんなさい……」
「いや」
「…散らかしました」
「いいんだ。そんなことは」
間近で見ると、キキョウはやはり愛らしかった。斜めに被った帽子も似合うし、目の脇には星形のシールが泣きぼくろのように付いている。軽く毛先をカールした髪がシールの縁に絡まっている。人差し指で解いてやれば、キキョウはくすぐったそうに片目を瞑って微笑んでくれる。
すべてが斬新で愛おしい、とトロイは現状に満足した。
「言ってくれるか?」
帽子を脱がせながら問う。出てきた頭のてっぺんはかぼちゃのぬいぐるみをあしらったゴムで頭頂付近の毛を結わえてある。キキョウがトロイを仰ぎ見るのに併せて丸まった毛先がふわふわ揺れる。
「私は菓子を持ち合わせていないのだ。ゆえに、キキョウの悪戯を甘んじて受けたいと思う」
「…あ、」
「これから朝まで……私の寝室で」
最後の言葉は息を潜めてキキョウの耳朶に吹き込んだ。肩をすくめたキキョウがしがみ付いてくる。ステッキがトロイの背をとんと打ち、続いてこつんと床を打つ。
「…トリック、オア」
言い終わらないうちに首筋へ悪戯を仕掛けられた。