ルックの姿勢は意外にも悪い。普段ぴしりと背筋を伸ばして体の芯から透き通る澄んだ声音を響かせるルックからは、およそ想像できないほどだ。
図書館の三階にはさまざまな視聴覚メディアを閲覧できるよう個室がいくつも設けられている。詰めれば四人が一列に並ぶことのできる座席と簡素な長机、少し離れて壁に埋め込まれた液晶テレビ。残る三方は上半分が磨りガラスになったドアと壁で仕切られていて、防音が効いていながら不透明さもそんなにはない。
ルックはアスフェルを待つ時たいていここで本を読み耽っている。一、二階にある広い読書室は、近くに座る他人の気配が気になって集中できないのだという。
アスフェルはルックの隣へ座った。ルックはこちらを見もしない。今日は持参した書物を読み終えたらしく、机に論文集が積まれてあって、至るところへ付箋がぴらぴら付いていた。代わりに珍しくテレビの電源を入れている。机に行儀悪く二の腕から先をべたりと乗せて、互い違いに平たく組み合わされた両手の上へ顎を乗せ、目だけぱっちり見開いている。そして食い入るように見つめるその先は、
――よいこのアニメ番組であった。
「僕、こういうの初めて見た」
「……面白いか?」
「映像と音声は別に録るんだよね?」
「そうだな」
「映像はコンピュータグラフィックじゃないよね、誰かが手で描くの? 毎回この量を全部?」
「まあ、一人ではないだろうけれど」
「頭がパンなら、脳やその他中枢機能は首より下にあるってこと? でもそれだとパンに感覚神経を通さない限り頭部の目、耳、鼻、口は機能しないってことになるよね……。じゃあ、パンの中にすべて収まってるってこと? 頭蓋骨もなさそうなのに?」
「……そ、そう、かな」
そういうことを考える必要こそないんじゃないか、とはなかなか言えない雰囲気である。
前にここを使った学生が置き忘れたものらしいビデオは、パンをモチーフにしたヒーローが町の住人を助けるアニメで、子供の頃に誰もが少なくとも一度は見聞きするような超人気番組だ。
まったく、あの魔女の躾ときたら! アスフェルは魔女と渾名をつけたルックの養母へ内心で恨み事を吐いた。子供にこういう番組を見せないで一体何をさせていたのか。どうせ家事全般に店の仕事だ。ルックに子供らしいことを何ひとつさせてやらなかったに違いない。
そもそも、空想上の子供向けストーリーに科学的な解釈をつけようとする思考回路自体が、大真面目にやっているからなおさら、極めて異質なものである。
(……そこがかわいいんだけれどね……)
アスフェルはふっと口角を下げた。そっとルックの旋毛へ手を伸ばし、毛束を指先へくるりと柔らかく巻きつけてみる。気づいているのかいないのか、ルックは瞬きもせずにテレビを注視し続けた。物語が佳境に入ったからだ。敵の攻撃によりパンでできた頭部が濡れてしまい、ヒーローの力が著しく弱まったところである。
来るぞ、と思う間もなくルックが疑問を口にする。
「弱点を目立つようにさらしてるの? 防水加工のヘルメットとかないの? ……ねえ、もしかして、このパン」
「食べられるよ」
ルックの尋ねたそうなことを汲み取って、アスフェルは先に答えを出した。途端にがばっと身を起こし、ルックは画面を指差しながらまさに泡を食った表情でアスフェルへ迫る。
「これ食べるの!? 頭だけ!? パンみたいに!? 中に何が入ってるの!?」
「あんこだろう。あんぱんの」
「だって目とか口とか、た、食べたら、ざりって」
「ならないんじゃないかな。全部パンでできているから」
「……!!」
ルックは声もなく驚愕する。物語は予想通り次の展開――湿気た頭部を焼きたての新品へ交換するシーンである――を映し出し、ルックはアスフェルとテレビをまるで幽霊でも見たかのように不可思議な視線をもって交互にぱたぱたと見比べた。
「頭を交換できるの!? もし頭部に脳があったら頭部を取り替えるたびに今までの記憶や知識をすべて新たな脳へ移す必要があることにならない!? それともやっぱり頭部はパンで、人間で例えると帽子みたいに頭の上へパンを乗せてるだけってこと? じゃあどこでものを見たり聞いたりするの? 小型の頭が頚部についてたりする? ――あ、または顔に相当する新器官が腹部やどこかに発達してる可能性もあるのか、この絵じゃほとんど視認できないけど」
「ルック。……限界」
「何が?」
ルックがかくりと小首を傾げる。
好奇心に支配されている時のルックは、熱心を通り越して完全にそれしか目に入らない。そして、納得いくまで徹底的に解明しなければ気のすまないところがある。
本人は無自覚だろうが……その時のルックがどんなに無防備で屈託なく目を輝かせていることか。いつものさばさばした冷静さがこの時ばかりはなりを潜める。すると銀杏を剥いたようにつるんとした、外界の寒風も衝撃も知らぬごとき純真な、ルックの珍しい一面が現出するのだ。
アスフェルが、今己にだけそれを向けられているアスフェルが、耐えられる道理なぞどこにもあるまい。
「……かわいい……」
思わず金茶の猫毛をかき抱き、ついでにわしゃわしゃ撫で回す。暫時警戒したルックが椅子から尻をやや浮かせるも中途半端に動きを止めた。よろけそうになるのを腰から掬って抱きとめれば、ルックの両手がすぐ背中へ回って、アスフェルの服をぎゅっと掴み寄せてくる。でないと姿勢を崩すからだろう。
「ちょっと、何すんの」
「まだ見たい?」
「ビデオ? 別にもういいけど、離してよ。このままじゃあんたに圧し掛かられてこけそうじゃない」
「じゃあ目を閉じて」
「……何で」
「――何で、だろうね?」
勘繰りやすい言葉で返せば、ルックは両目を少し瞠った。間近で見つめるルックの翡翠は奥の網膜まで透き通るようだ。睫毛が綺麗に生え揃っている。
みどりの深まる瞳孔がわずかにぶれ、束の間ルックの心情をそこへ映じた。しかしすぐに瞼が瞳を覆って閉じる。
「目、乾いた」
とってつけたような言い訳だ。もちろん合わせてやるけれど。
「ずっと瞬きもしなかったからだろう」
「今まとめてしてるの」
「それはそれは、俺にとっても少なからず好都合な展開で」
「……あんたの思惑なんか知らないよ」
「本当に天邪鬼だな。――ならルックのお望み通り、知らない間に奪おうか」
瞬間、服の背を握る力が強まったことを、アスフェルは溶けるような感触の中で知覚した。
帰りにつぶあんぱんを買ってあげよう、と半ば宣誓のように心へ決めて。
啄ばむキスは、あずき煮よりも甘かった。