甘い関係





「俺だって、甘えたくならないとは言わないよ」
そんな発言で瞬く間に物議を醸したこの男、アスフェル=マクドールの眉間辺りを、シーナは呆れて見下ろした。
かの瞳は黒い。月影のない夜よりもなお光るもの一切を吸引し、かつ陽光の下よりもなお彩るもの一切を内包する。闇を統べ得る黒曜だ。それが今はさも可笑しげな嘲りを含んですうと計算高く細められている。
性格悪りぃ、と目線で詰れば相手はすぐに察した様子。机の上に胡坐をかいてサンドイッチを頬張るこちらへ軽くウインクを投げて寄越した。
「シーナには理由がわかるだろう?」
「――ちょ、俺を巻き込むなそこの腹黒! つうか喧嘩にしろ遊びにしろとにかく面倒事は金輪際俺の側でやらかすなっつーハナシをきっちしツケたろ三日前によ!」
「正確には二日前の丑三つ時だな」
「ばーろテメ、朝はめざましテレビで始まるって決まってんだよそれまでは夜! まだ前日が終わってねぇの!」
「……だ、そうだよ。ミーナ。シーナも役に立たないらしい」
「しんっっじらんなぁぁい!! シーナの人でなし!! 薄情モノー!!」
アスフェルはいいのか、などという正論が罷り通るはずもない。
昼休みの教室は怒号と悲鳴が入り乱れ、ちょっとした乱戦を現出、固定させている。シーナは残る二切れのサンドイッチをまとめて口へ放り込んだ。この唯一被害が及んでいなかった机、すなわち大海における孤島のごとき位置づけであったこの机から、間もなく己が引き摺り下ろされるだろうとリアルに想像したからだ。
果たして予測は的中し、ミーナとシルビナを含む女子集団によってシーナは床へ蹴り落とされた。その際ちらっと、本当にちらっとだけ、ミーナが人より随分短くしているせいで、スカートの奥が見えてしまったことはシーナの瞼へ永遠に秘匿し墓石の下まで持っていきたいものだと思う。
「アスフェルにできないんならシーナしかいないでしょ!!」
「ンでだよ、他にも男はいんだろが」
「も、もしキルキスだったら、……わたし、これから一生手をつなげなくなるじゃない〜!」
ミーナとシルビナに両耳の鼓膜を遠慮なくぎゃんぎゃん攻め立てられて、シーナは思わず床へ突いた両手を支えにのけぞった。上下が逆転した視線の先、ごく一般的な勉強机と揃いの椅子へいとも優雅に座るアスフェルは、頬杖を突いてにこにこしている。
アスフェルの机へは女子が山ほど集まっていて、ついでに男子も身を寄せていて、学ランセーラーと双方黒が際立つ制服、失礼な比喩だが道端で何かへたかっている蝿を連想させるものがある。アスフェルは猫なで声で「シーナ、大丈夫か?」などとさも友人のような台詞を白々しく吐き、女子どもが何を勘違いしてかきゃあっと甲高いテンションで騒いだ。……最低だ。
「――わぁった。俺がやる」
ついにシーナは覚悟を決めた。アスフェルがああして廊下側の席から動こうとしない理由は、一部のやつらにとってまだ甘える相手が誰なのかという物議の最中ではあるが、確かにシーナしか知らないだろう。そして、この場でくくる覚悟などよりアスフェルの怒りを買う覚悟の方がよほど凄惨で悲壮なものだということも、シーナは身に沁みて知っている。
それでも一応抗いたいのが弱者ならではの宿命で、シーナは一度だけ、大声を振り絞って呼んでみた。
「フ、リ、ッ、ク、せ、ん、せー!!!」
中二Sクラスの担任だ。世界一不幸といっても差し支えない、青いジャージがトレードマークの薄幸体育教師である。
せんせーせんせー、と悲痛なこだま。一フロア十教室分の長い廊下と東西に二箇所ある階段を通って上下階、シーナの声が捜索をする。
――反応は、返らなかった。
「くそ。……ミーナ、ナビ頼む。アスフェル、せめて教科書の一冊くらい俺に貸せ」
「シーナの上靴は何のためにある?」
「履くため、だっつうの!」
シーナは苦々しくも従順に踵の履き潰された右上靴を脱ぎ捨てた。それを右手に握り締め、抜き足差し足、ミーナの指す方へ向かってじりじり前進を開始する。教室内の生徒、すなわちシーナのクラスメイトはこぞってロッカー側へ退避してしまい、シーナは後方からいくつもの息を飲む視線に晒された。
シーナは果敢に教卓へ近づく。教室の外へ通じるドアはおそらく余計な気を利かせた女子がしっかり閉めてくれている。事を確実に教室内で終えるためだ。つまり、互いに逃げ場はどこにもない。



「そこだぁぁぁぁぁーーーーー!!!」



シーナは大きく右腕を振りかぶった。





残骸の処理は、五限で保健の授業をすることになるフリック先生へ託すことで見事に満場一致した。
教室がようやくいつも通りの賑わいに戻ったのは昼休み終了四分前である。シーナはやっぱり敬遠されて、特に皆が右足を見る時のぎこちなさときたら相当しこたまいたたまれない。戦場の英雄へこの待遇だ。納得いかないにもほどがある。
「アスフェル、借りてた軍手、……何?」
まさに孤島となった自分の机へ突っ伏して独り嘆くシーナの耳に、清澄な声音がそよりと届いた。ある意味で元凶の一たるルックのものだ。廊下側へ開いた窓から上半身をせり出して手を振るアスフェルに話しかけてでもいるような、遠くからふんわり響く声である。
教室内の、何か壮絶な戦いが終わった後に漂う後味の悪い雰囲気を、ルックは一瞥して瞬時に看破したらしい。相変わらず察しの良い目だ。
――ルックが見たのはアスフェルの表情であって教室内ではなかったことを、突っ伏すシーナは気づかない。
「ルックが日直の仕事をしている間にね、ちょっとした見世物があったんだ」
「ふぅん」
穏やかに答えてやるのはアスフェルの声だ。そこへ微量に混ざっているとろとろしたニュアンスがやたらめったら腹立たしい。シーナはうつ伏せたままさらにきつく目を閉じる。右足が気持ち悪い気がする。先の奇妙に柔らかかった、ばり、ぐちゅっという感触ごとすべて忘れてしまいたい。
「聞きたい?」
「別に」
「さして面白くもなかったよ」
「あっそ」
ルックはあっさり興味を失した。話題は午前の英語の授業へと流れる。聞くともなしに耳へ通して、そういえばもうすぐ衣替えの時期だと場違いなことを考えた。
(夏服と同時に上靴もおニューとか、いいんじゃねぇかな)
不自然な時期に新調することへの弁明だ。両親はシーナに甘いから、きちんと説明できさえすれば何でも許してくれるのだ。
頭上でチャイムがのどかに鳴った。
「あ、次保健だっけ」
「ルックっていつも保健の授業だけ全然聞いていないだろう」
「特に、だよ。悪い?」
次なる不幸の訪れだ。
担任教師にかかる災難を思いやり、少なくとも自分より哀れなことを確信するや、シーナはくつくつ喉の奥から笑みを漏らしたのであった。……シーナ自身を救済するためのものだと、本人を含め全員が、切なく笑いを噛み締めたことはもはや今さら言うまでもない。


どうしても気持ち悪くて打ちたくなかったのでひたすら名称表現を避けてのGネタ。
20061005